鶴田浩二
「ニヒル」、辞書を引きますと、「虚無」とありますが、私の理解とは、少し違うのです。私は独断的に、『スクリーンの中に観る、鶴田浩二のような陰影のある男を言い当てるのを《ニヒル》と言う!』と定義しているのですが。
私は、青年期に、一人の映画スターに憧れました。立川や新宿の映画館で観た、裕次郎とか赤木圭一郎ではなく、もう少し古い、お袋の弟の世代といったらいいでしょうか、その世代の俳優で歌手だった、この鶴田浩二が大好きだったのです。髭もはえていない中学生にしては、少々ませた憧れだったかも知れません。無口で、言い訳をしないで、黙ってすべきことをする男気のある人間に、彼が見えたのです。そう言った理想の男性像を、心の中に思い描いて、『そんな大人になりたい!』と願ったのです。
そんな私が、自分の人生観も死生観も価値観も職業観も、さらには女性観も憧れも、まったく変えられてしまう出会いによって、一大転機を迎えることが出来たのです。25の時でした。目では見ることは出来なかったのですが、心の奥底で捉え、いえ捉えられたと言うべきでしょうか、私の心の深部に触れてくださった「至高者」との出会いでした。
表面的には、好青年に見えたかも知れませんが、裏がありました。憧れていた鶴田に似たのでしょうか、女好きで、親や世間の目に上手く隠れては、酒を飲んで酔っては出鱈目を生きていました。もういっぱしの駄目男が出来上がろうとしていたのです。
ある場末のストリップ劇場の舞台に、酔った私は呼び上げられたことがありました。なぜ、そんなところにいたのか覚えていません。でも習慣になっていたのでしょうから、おのずと足や手や目は、そちらに向いて行ってしまうのですね。ブレーキは全く利かないのです。そのキラキラと点滅する照明が当てられ、強いビートのきいたレコード音楽の流れる舞台の上で、20代半ばの私は、おじさんたちをよそに、請われて踊り子の衣装の紐を解いていました。酔いが醒めたときに、『こんなことまでするように堕ちてしまったんだ!』と心底悔いました。でも抑止力は、全く無かったのです。柳ヶ瀬とか浜松とか天神とか川崎とか伊勢佐木町とかの歓楽街を、ニヒルにも闊歩していました。もう一歩で死ぬか殺されるか、地獄へのドン詰まりにいたのかも知れません。
そんな時に、女子高の教師になる機会が降って湧いてきたのです。それで私は、『生徒を俺の欲情の対象にしない!これが出来るなら続けよう!』と決心して始めたのです。ところが、あの時代の東京の三流校の女の子たちは、すでに真正の「女」でした。鼻の下を長くしていたら、いっぺんに堕落でした。一方、同僚たちも、聖職意識などもっていなかったのです。一回りほど年長の音楽科主任が、『雅仁君、可愛い小さな恋人を作ってもいいんだよ!』と勧めてくれました。男性教員のほとんどに、『何々先生の可愛い子!』がいると言うのです。あきれた学校でした。何時かテレビでやっていた、学園物にも似たような話があったようですが。
ある時、アメリカ旅行から帰って来た理科主任が、『今日、放課後に、視聴覚教室で映画会をするから、雅仁先生もぜひ来て観ませんか!』と誘ってくれたのです。なんと、生徒に隠れたブルー・フィルムの秘密上映会でした。また教員の間で、猥褻写真が回覧されていました。『雅仁先生もどうですか、ご覧になられますか?』と言われたとき、反吐が出そうでした。そのように三度もカウンター・パンチを見回された私は、『おい、俺を、もう一度あの世界に戻してくれるな!』と転倒寸前のロープ際で叫んでいました。
『教職は天職だ!一生やっていこう!』と言う夢は微塵に崩れて砕かれてしまったのです。その学校には、短大がありました。私を招聘してくださった方が、そこの教務部長で教授でした。彼の恩師は、ある
夢を無くしたら、諦めて、罪の中で言い訳をしながら、とっぷり浸かって生きるはずの人間でした。ところが、『そんな生き方に、また舞い戻ったら、もうお仕舞いだ!』との思いが、ふと湧き上がって来たのです。何者かに、背中を押されるようにして、集まりに導かれたのです。母がそこの会員で、上の兄が副責任者でした。ちょうどその頃、アメリカからアフリカに行こうとしていた方が、途中、東京に寄って行きました。彼の講演会で、私は涙を流して泣いて、方向転換を果たしたのです。自分の意思によってではなく、大きな圧倒されるような力の強圧と支配とを感じたようにしてでした。まったく瞬間でした、長年習慣化されていた喫煙や飲酒や盛り場徘徊や女性交友から自由にされたのです。赦されたことが分かったのは、その時でした。
すんでのところで、地獄に背を向けて、陽の燦燦と降り注ぐ希望の国に生き始めることが出来たのです。その2ヵ月後、今の家内と婚約することができました(別に家内がいたのでありませんので念のため)。
それにしても、鶴田浩二は、私にとって強烈に印象深い男です。今、彼が亡くなった年齢になったのですが、もはや彼の様にではなく、あの「保羅」の百分の一ほどを生きて行きたいと、切にそう願う早春の週末であります。
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