2009年1月28日水曜日

『天使のような外交官!』


  
 かつて、杉原千畝(ちうね・1900~1986)と言う外交官がいました。日本よりも、イスラエルで有名な方ですが、ご存知でしょうか。第二次世界大戦下のリトアニア(旧ソ連に属しポーランドと国境を接しています)というヨーロッパの小国で、領事を務めておられた方です。ヨーロッパを狂気の渦に巻き込んだ、ナチス・ドイツが侵略したポーランドから逃れて来たユダヤ人がたくさんいました。そんな彼らに、日本通過査証(ビサ)を発給した外交官が、杉原千畝です。戦時下の外務省は、彼らへの査証は、条件を満たした者だけに発給する規定があったのですが、領事としての権限と、人道上の理由から、博愛に富む彼は査証の発給を強行します。1940年9月のドイツに移るまでの50日の間、妻の幸子と、資格のないユダヤ人申請者たちのために査証を書き続けたのだそうです。さらに、「領事特別許可証(査証よりも記載が簡潔な緊急時の査証の一種)」を発給します。ベルリンへの汽車の発車直前まで、カウナス駅のプラットホームで書き続けたとのことです。実に、その発給の総数は2139枚、およそ6000人の命がナチス・ドイツの魔手から救出されたことになります。それは、外交官としては処罰されるべきあるまじき行為だったのですが、それを恐れずに日夜、自筆し続けたことになります。査証を入手したユダヤ人は、日米関係がまだ良好な時期に、そこからシベリヤ鉄道でウラジオストックに行き、日本の敦賀港に逃れ、そこからアメリカに渡ったのです。その後、アメリカに行くことのできなくなったユダヤ人は、上海の租界に落ち着き、敗戦とともに自由を得たのです。



 
 戦後、帰国した彼は、そのことが原因したからでしょうか、または省内の人員整理が行われたからでしょうか、外務省を解雇されたのです。それで杉原は、不遇の戦後をひっそりと生きます。一方、査証の発給を受けたユダヤ人たちは、千畝の足取りを追っていました。1962年のことです、千畝はイスラエル大使館から呼び出されます。大使館を尋ねた千畝は、ニシュリという参事官から、1枚のボロボロになった紙を見せられたのです。それはリトアニアで書き続けた、あの査証の1枚でした。その参事官ニシュリはその査証によって、アメリカに逃れて生き延びることができたのです。彼は、千畝の手を固く握って、涙を流して感謝を表したのです。




 1985年、千畝はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授与されるのです。それは驚くほどの栄誉ある出来事だったと言えます。誰にも知られることのない隠れた善行が、日本の社会に知らされるきっかけとなったのが、この賞の授与だったのです。しかしこの時、千畝は病床にありました。そして翌年の1986年に召されます。規則破りの外交官としての所業は好ましいものではないのですが、法よりも規則よりも、人の命の重さを知っていた千畝の行為は、賞賛に値するものがあります。勇気ある《人道上の決断》だったと言えないでしょうか。轟々たる非難を浴びる戦時下の日本と日本人だったのですが、千畝のような日本人がいたことは、溜飲の下がることだったといえないでしょうか。周りや人の顔を気にする傾向の強い日本人の中で、ご自分の信念を貫いて生きたことに驚かされながらも、素晴らしいことだったわけです。実に爽快な人間らしい行為に拍手喝采を送りたいのです。





 彼の銅像が、アメリカのロスアンゼルスにあります。2002年に行われた除幕式に、彼の長男・千暁が招かれていますが、その席で千暁の語ったことばの中には、父の《信条上の理由と確信》が語られていたのです。また、エルサレムにある「虐殺記念館(ヤド・バシェム)」の敷地には、千畝の善行を記念し、感謝を表した木が植樹されているそうです。千畝によって狂気のヨーロッパから逃れた人たちは、彼を『救世主』とか『天使』と言って、大きな感謝を表明されています。千畝のような日本人がいたことは、私たちの誇りですし、彼のように生きるように、私たちは挑戦されているのではないでしょうか。千畝は、『私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった 』、『人間にとっていちばん大切なのは、愛と人道だ!』と言うことばを残しています。



(写真は、「地図上の赤い箇所が『リトアニア共和国』」、「杉原千畝」、「千畝の発給した査証」、「千畝が査証を書き続けたマウナス駅のプラットホーム」、「査証の発給を求めたユダヤ人のみなさん」です)

2009年1月24日土曜日

「崇高な誓い」を聞いて



 私の在米の友人に、『エイブ!』と自分を呼ぶ人がいます。なぜそうなのかは、彼の事務所に行ったときに分かったのです。壁に、『奴隷解放の父!』と言われた「アブラハム・リンカーン」の肖像画が掲げてあったからです。生粋の日本人なのですが、リンカーンを尊敬している彼は、自分をそう呼んでいるのです。その彼が私に、『何て呼んだらいい?』と言うので、『ジミーと呼んで!』と答えたのです。私の名の由来は、今は亡き、往年のハリウッド・スターで、ジェームス・ディーンから採ったのですが。二本立ての旧作を上映する国分寺名画座の常連であった中学生の私には、忘れることのできない俳優なのです。十代の私は、ジーパンやジージャンを上野・御徒町のアメ横で買って、ブーツの革靴を履いて颯爽と歩いていました。残念ながら髪の毛も目の色も、彼のようではなかったのですが、心は「エデンの東」のキャル、「理由なき反抗」のジム、「ジャイアンツ」のジェット、そのものでした。彼はハンバーガー、私はあんぱんの違いを超えて、そうだったのです。




 さてリンカーンですが、1809年にケンタッキーの農場の丸太小屋で、開拓者の子として生まれています。公の教育を受けたのは2~3年だったそうです。実母と9才で死別します。お母さんから、素晴らしい感化を受けているのですが、その1つは読書だったようです。「○書」や「ワシントン伝」は、彼の愛読書でした。さまざまな職業に就くのですが、イリノイ州の下院議員になります。二十代の半ばに、法律を学んで弁護士を志し、資格を取得するのです。1860年に、アメリカ合衆国大統領に選任され、1861年3月4日に就任式 が行われ、第16代アメリカ合衆国大統領に就任するのです。就任後の1863年11月19日、ゲディスバーグ国立戦没者墓地の奉献式場で、私たちが歴史で学んだ、有名な演説を行います。「人民の人民による、人民のための政治」ですが、実に3分ほどだったといわれています。1865年4月14日、志半ばで 暗殺され召されています。アメリカでは、初代のワシントンについで、人気を博した大統領なのです。




 このエイブ・リンカーンの掲げた「奴隷解放宣言」こそは、アメリカの良心であり、積年のアメリカの悲願でありました。しかし人種差別は、想像を絶する形で残され、多くの差別撤廃運動が繰り広げらるのです。このリンカーンの遺志を継いで、「公民権運動」を起こしたのが、マーティン・ルサー・キング師でした。彼もまた1978年、テネシー州メンフィスで凶弾に倒れています。”I Have a Dream”は、彼の説教の主題でした。そのキング師の夢とは、『・・・いつの日か、かつての奴隷の子たちと、かつての奴隷の所有者たちの子たちが、兄弟愛というテーブルで席を共にできることを!』でした。




 1月20日(アメリカ時間)、リンカーン大統領やキング師が、高く掲げた志を背に、第44代アメリカ合衆国大統領にオバマ氏が就任しました。彼は、宣誓式の就任演説で、『・・・60年にもならない昔だったら、この近所のレストランで注文さえさせてもらえなかったはずの父をもつ男が、なぜ今こうして皆さんの前で最も崇高な誓いをたてることができたのか・・・』と語っていました。大変に困難な時代のアメリカの舵取りをして行こうとしているアメリカ大統領が、建国の父たちの理想、公義を愛し、理想の国造りに専心してきた人々の志を負いながら、知恵深く政(まつりごと)を行うことができるようにと願っております。アメリカ国民が選んだ器でありますから、アメリカ国民は、彼を支え激励していくことでしょう。ジョージ・ワシントン大統領には、トマス・ジェファーソンやアレキサンダーー・ハミルトンという器が補佐役としていたように、オバマ大統領にも、優れた知恵深い助言者があることを、心から願うのです。この4年の任期に、格別の祝福のあることを切に願って、大統領就任を祝い、夫人とお二人のお嬢さんのたちの上にも、守りと祝福を願うものです。

(写真は、「アブラハム・リンカーン」、「アメリカ国旗」、「キング牧師」、「オバマ大統領/筑紫直弘イラスト」です)

2009年1月23日金曜日

バーべQに誘ってくださる理由(わけ)



  1902年に、アメリカのシカゴで始まりました社会奉仕団体に、「ロータリー・クラブ」があります。日本支部は、1920年に、三井銀行の重役であった米山梅吉らにより、東京に設立されております。第二次世界大戦よる中断がありましたが、戦後まもなく復興され、現在クラブ数2,314、会員数97,822人(2008年5月末)にも上るのだそうです。この創始者の米山梅吉の没後、彼の功績を記念して、アジア諸国からの私費留学生のための国際奨学金制度を設けたのです。「米山奨学金(正式には〈ロータリー米山記念奨学会)」と呼ばれていまして、これまで数多くのアジアの留学生が、その恩恵に預かっておられるのです。




 そういえば家内も、日本育英会(現・日本学生支援機構 )の奨学金を受給して学校で学んだと言っておりました。彼女のように奨学金を受けた人は、その返済の義務を負っているのですが、公立機関に就職しますと免除されるそうです。家内は市立の保育園に就職しましたので、返済を免除されたのですが、そんな恩典を受けた多くの奨学生が、その返済を怠っているのだそうです。過半数だと聞きますが。奨学金の収支に赤字が出ていると、ニュースが伝えているのですが、けしからんことであります。返還された奨学金が、また新たな奨学生を援助できることを考えるなら、ぜひとも返済してほしいものです。奨学金をもらえるほど優秀でなかった私は、アルバイトをして授業料を稼いで支払ったのですが。




 さて、天津の語学学校で学んでおりました2007年の3月末に、学校の一週間の休みを利用して、福建省の厦门(シャー・メン)と福州にいる友人を訪問したのです。福州の近くにある町で、障碍をもたれた子どもさんたちのお世話をしておられたご家族の家に泊めていただきました。そのとき、『福州に来ませんか。私の友人が福建師範大学海外教育学院で院長をしていますので、そこで学ばれたらどうでしょう!』と勧めてくれたのです。二転三転、悩んだ末、結局、引越しを決断したのです。福州に来まして間もなく、一人の中国人の女性から連絡がありました。食事に招いてくださったのです。福州の隣町の出身で、日本語の実にお上手な方です。彼女は、広島大学・大学院に留学して、博士号を得て、中国に帰られ、福建師範大学に教員として働いていたるのです。私たちがお会いしたのは、帰国して3年ほどたっていたと言っていました。いろいろとお話しをお聞きするうちに、この方が、広島におられたときに、その「米山奨学金」を受給されたのだそうです。コンビニや町工場でアルバイトをしながら学んでいた彼女には、その給付は大変な助けであって、大変感謝をされておいででした。その彼女の友人が、昨年の暮れに福州を訪ねて来られて、我が家にも訪問してくださって、一緒に食事をしたりお交わりをしたのです。この方も同じ米山奨学金を受けておられて、日本に対して好印象をお持ちでした。



 こういった形で、アジア諸国の次の時代を担おうとされている留学生に、経済的な援助をしておられることは、実に尊いことだと思わされるのです。隣人愛や経済利益の還元と言う形でも、開発途上国の優秀な人材養成に寄与していることを、このお二人との出会いを通して、ひしと感じることができたのです。米山梅吉は、江戸から明治に変わっていく1868年に、武家の子として江戸の藩邸で誕生しています。篤い人情の持ち主で、多くの方に慕われ敬われたのだそうで、実業界でも大いに用いられた方なのです。そういった好意を受けられた方が、今度は、日本からやって来ました私たちに、何かといって好意を示していてくれるのです。私たちの子どもの世代の方が、私たちの保護者のようにして、何かと気遣ってくださって、食事にお招きくださったり、必要なところにお連れ下さったり、バーべQやハイキングなどにもお誘いくださるのです。中日の友好が、こういった形でもなされていて、そのような恩恵に私たちがあずかれるのは、彼女たちの感謝を生み出した、その「米山奨学会」にあるのだと言えるのではないでしょうか。106カ国の若者たちの向学心に援助しているのには、感服の至りであります。

(写真は、「天津の語学学校」、「米山梅吉氏」、「百年の歴史を持つ福建師範大学・現在は海外教育学院の教室として使用されています」、「広島大学大学院・法学部校舎」です)

2009年1月22日木曜日

『あの子はだあれ・・・』



  『あのこはだあれだれでしょね?』と歌い出しの童謡があります。その最後が、『となりのみよちゃんじゃないでしょか!』ですが、この頃では、携帯電話の着歌メロディーの中にもあるようです。四人兄弟の三男坊の私は、『姉や妹がいたらなあ!』と思うことがよくありましたが、いたのは兄二人、弟一人で、実にがさつな家庭で育ったのだと思います。兄たちも弟も、同じように感じていたに違いないのでしょうけど。山奥に住んでいたときに、隣に一級上の女の子がいましたし、東京に出てきてからは近所に一級下の女の子がいました。『みよちゃん!』ではなかったのですが、誰よりも、身近に感じた姉のような妹のような幼馴染だったと思うのです。




 兄二人が結婚して姉ができ、弟の奥さんは妹のように感じたのですが、一緒に育ったわけではないので、やはり義姉であり義妹だったわけです。やはり男兄弟4人というのは、実にすさまじいものがあったのです。その上、子どものような父がいましたから、母は5人の息子の世話をやいていたことになるのでしょうか。3番目の私が生まれるときには、女の子を望んでいたようですが、裏切られてしまい、4人目もだめでした。母は一人娘で兄弟姉妹のない家庭で育ったので、男ばかりの家庭が、これほどまで激しくて荒いものだとは思ってみなかったのではないでしょうか。でも、母は年をとるにつれて、私たちを頼もしく感じているようです。




 その母に、『若いころに流行っていた歌謡曲は、どういうのがあるの?』と聞いたことがありました。高校生のころだったと思います。昭和10年(1935年)ですから、母が18才ほどのときに、児玉好雄が歌った「無情の夢」という歌だったのです。歌謡曲を歌う歌声など、ついぞ聴いたことはありませんでしたが、娘時代を思い出しながらでしょうか、哀調を込めて歌ってくれました。結構上手でした。ふるさとの町、近所にあこがれていた男性がいたのでしょうか、母のアルバムの中に、江田島の海軍兵学校の軍服を着た、凛々しい若者の写真を見たことがありました。父の写真ではありませんでした。この歌は、『あきらめましょうと 別れてみたが 何で忘りょう 忘らりょうか 命をかけた恋じゃもの 燃えて身を灼く 恋ごころ 』という歌詞でした。まだこういった恋に落ちる経験はありませんでしたし、『いつかこんな燃え立つような恋をしてみたい!』とは思わされたのですが、歌のような、映画のような恋をすることなく結婚をいたしました。




 24歳の時、一組の夫婦が私のいた職場にやって来られました。私の上司の話によりますと、この奥さんは、夫や子どもがいたのに、恋に落ちて、そのご主人の元に走ったのだというのです。『私は七たび生まれ変わっても、あなたの妻になります!』と言っておられるとのことでした。そんな小説を生きているような二人を、興味津々眺めながら、お話を聞いていたのです。『大人の世界には、そんな恋ってあるんだな!』と思わされましたが、青年の私の目に魅力を感じませんでした。誰かが、どこかで不幸せになっていて、ここにいる二人の幸せがあるというのは腑に落ちなかったからです。多くの人と出会ってきて、いまだにかしげた首が戻らない二人なのです。




 娘たちに言わせますと、私たちは《ナイスカップル》なのだそうです。自分たちの友人が離婚したり、両親も別れるといった、いくつもの結婚の厳しい現実を目にしながら、今は、大人の目で両親を見ていて、そう言ってくれるのです。軽率な結婚も、大恋愛の末の結婚も、見合いだって、親の決めた結婚だってあるのですが、何十年もの年月が過ぎて、互いの弱さを知り尽くしてもなお、労わり合いながら、支え合っている夫婦は、そう映るのでしょうか。
 それにしても、20代に出会ったあの異様な二人の結末が気にかかるのですが。母よりも一世代以上は若かったのですから、まだ元気のことでしょう。『まだ、生まれ変わって七たびも、彼の奥さんになりたいですか?』と聴いてみたい思い駆られるのですが。これって余計のお世話ですよね。

(写真は、「水仙」、「1935年に発行された上海の絵葉書」、「昔の上海」、「江田島」、「福州・森林公園の蓮の花」です)

  『あの子はだあれだれでしょね?』と歌い出しの童謡があります。その最後が、『となりのみよちゃんじゃないでしょか!』ですが、この頃では、携帯電話の着歌メロディーの中にもあるようです。四人兄弟の三男坊の私は、『姉や妹がいたらなあ!』と思うことがよくありましたが、いたのは兄二人、弟一人で、実にがさつな家庭で育ったのだと思います。兄たちも弟も、同じように感じていたに違いないのでしょうけど。山奥に住んでいたときに、隣に一級上の女の子がいましたし、東京に出てきてからは近所に一級下の女の子がいました。『みよちゃん!』ではなかったのですが、誰よりも、身近に感じた姉のような妹のような幼馴染だったと思うのです。
 兄二人が結婚して姉ができ、弟の奥さんは妹のように感じたのですが、一緒に育ったわけではないので、やはり義姉であり義妹だったわけです。やはり男兄弟4人というのは、実にすさまじいものがあったのです。その上、子どものような父がいましたから、母は5人の息子の世話をやいていたことになるのでしょうか。3番目の私が生まれるときには、女の子を望んでいたようですが、裏切られてしまい、4人目もだめでした。母は一人娘で兄弟姉妹のない家庭で育ったので、男ばかりの家庭が、これほどまで激しくて荒いものだとは思ってみなかったのではないでしょうか。でも、母は年をとるにつれて、私たちを頼もしく感じてくれたようです。
 その母に、『若いころに流行っていた歌謡曲は、どういうのがあるの?』と聞いたことがありました。高校生のころだったと思います。昭和10年(1935年)ですから、母が18才ほどのときに、児玉好雄が歌った「無情の夢」という歌だったのです。歌謡曲を歌う歌声など、ついぞ聴いたことはありませんでしたが、娘時代を思い出しながらでしょうか、哀調を込めて歌ってくれました。結構上手でした。ふるさとの町、近所にあこがれていた男性がいたのでしょうか、母のアルバムの中に、江田島の海軍兵学校の軍服を着た、凛々しい若者の写真を見たことがありました。父の写真ではありませんでした。この歌は、『あきらめましょうと 別れてみたが 何で忘りょう 忘らりょうか 命をかけた恋じゃもの 燃えて身を灼く 恋ごころ 』という歌詞でした。まだこういった恋に落ちる経験はありませんでしたし、『いつかこんな燃え立つような恋をしてみたい!』とは思わされたのですが、歌のような、映画のような恋をすることなく結婚をいたしました。
 24歳のときに、一組の夫婦が私のいた職場にやって来てお会いしました。奥さんを同伴されていました。この奥さんは、夫がある身なのに、そのご主人の元に走ったのだそうで、『私は七たび生まれ変わっても、あなたの妻になります!』と言ったとか、彼らの友人で私の上司が話してくれたのです。『そんな恋ってあるんだな!』と思わされましたが、青年の私の目には幸せそうには映りませんでしたから、羨ましく感じることはありませんでした。



 娘たちに言わせますと、私と家内は《ナイスカップル》なのだそうです。自分たちの友人が離婚したり、両親も別れるといった、いくつもの結婚の厳しい現実を目にしながら、今は、大人の目で両親を見ているようです。軽率な結婚も、大恋愛の末の結婚も、見合いだって、親の決めた結婚だってあるのですが、何十年もの年月が過ぎて、互いの弱さを知り尽くしてもなお、労わり合いながら、支え合っている夫婦ほど幸せなのに違いありません。」
 それにしても、20代に出会ったあの異様な二人の結末が気にかかるのですが。母よりも一世代以上は若かったのですから、まだ元気のことでしょう。『まだ生まれ変わって七度も、彼の奥さんになりたいですか?』と聴いてみたい思い駆られるのですが。余計のお世話ですね。

2009年1月17日土曜日

心の帯に刺した二本の剣



 『希望にあふれる新年を迎えまして・・・』と、毎年、新年の挨拶状を送るのですが、2009年の現実は、《希望あふれる》ことには程遠いように感じられます。私たちの同胞の自殺者数は、2008年も3万人を大きく上回っていると報じられていたからであります。自動車事故による死者の数が、法改正によってでしょうか、5000人台に半減したのに、自死する人の数がこの10年、3万人を上回っている現実に、世界の関心が寄せられています。同じ日本人として、実に由々しき問題であります。中国の自殺が、農村部の女性の農薬自殺、アメリカの自殺が、青少年の銃による自殺を特徴的に表すように、日本的自殺の特徴がいくつか上げられていますが、その1つは、《名誉に関わるもの》があるそうです。『生き恥をさらすこと!』への恐れのことでしょうか、「恥の文化」が人を死の淵に追いやるのでしょうか、自ら死ぬことによって不問に付して、「潔し」とするようです。《人の目》や《人の噂》を気にして生きる日本人だからでしょうか。




 葉隠れの中に、『武士道とは死ぬことと見つけたり!』とあります。3年間、担任(社会科)をしてくださったK先生の特別講義が映画鑑賞とともに視聴覚教室で行われたのです。半世紀も前のことになりますが。サイパン島だと思うのですが、アメリカ軍の戦艦から撮影された映像が映し出されていました。海岸の絶壁から、婦人たちが飛び降り自殺を次から次へとしていたのです。死に切れなかった方が、もう一段飛び降りていくといった、中学生の私たちには実に衝撃的な映像だったのです。軍人たちが、《軍人訓》に従って、捕虜になる恥をさらさないために死んでいくのではなく、民間人が、ああやって死に行こうとしていた姿は、驚愕そのものでした。自発的だったのでしょうか、軍部の命令なのでしょうか、あのようにして死に逝く様は、決して美しくありませんでしたし、潔くもなかったのです。この先生が、『日本人は、死ぬことを恐れない。命令に対して絶対服従する。野蛮行為を平気で出来るのです。この三拍子が揃っている日本人ほど、兵隊に向いた民族はないのです!』と付け加えました。担任は、戦後を生きて行く私たちに、重い課題を負わせ、過去を直視するようにされたのだと思うのです。




 「愛国心」と言う思いが、何時ごろ芽生え始めるのでしょうか、自分のこと、自分の幸福だけを考えている時代を過ぎて、家族や国家などに思いを向けらるようになる年齢がいくつくらいからなのでしょうか。私の場合は、中学のときだったと思うのです。平和憲法の下で教育を受け、新しい教育法のもとで教育を受けてきた私でしたが、父の世代よりも若い世代が、祖国のために軍隊に勇躍志願し、国防の思いを熱くして、死ぬことを恐れずに「海軍予科練習生」となって行った人たちのことを知って、彼らに大いに憧れたのです。15年、20年ほど前の同世代の青少年たちが、そのように死んで逝ったことに心を打たれたからでした。もちろん海軍の家に育った父の血なのかも知れませんが。そんな軍国少年の志をもって、少年期を過ごしたのです。文明国アメリカの物質文明への憧れと、かつての敵国アメリカ人への憎悪とが思いの中にあって、終始一貫しない矛盾した心を持って、少年期を過ごしていたのです。映画のスクリーンに映し出されるジェムス・ディーンに憧れると思えば、アメリカ兵を喧嘩に挑発するといった矛盾だらけの青年期でした。



 当時、『主義や理想や信条のために俺は死ねる!』と言う、あの「特攻精神」が宿っていたように思います。そういった死に憧れてもいたからでしょうか。ところが、そんな矛盾した私の周りには何人ものアメリカ人がいたのです。母と懇意にしていた方たちでした。我が家にも時々来られたのです。そして、その一人の方の事業の展開のために、それまでの仕事を私は辞めて、転職してしまったのです。これも矛盾の中の選択だったと思うのですが。その1年ほど前になりますが、26のときに、私は佳人を得て結婚しました。彼女との新婚旅行に、「霞ヶ浦」を選んだのです。『もっとロマンチックな場所を選べばよかったのに!』と後で思ったのかと言いますと、そうではありませんでした。そこしか考えられなかったのです。家内には申し訳なかったのですが。霞ヶ浦を潮来に向けて船で渡ったのです。特攻機の機影を映した湖面を、船は静かに動いていきました。それは軍国少年の亡霊の葬りの旅でした。そうしなければ結婚生活が出来ないように感じたからなのです。



 
 あのアメリカ・ジョージア出身のアメリカ人実業家と過ごした7年間は、私にとって軌道修正の学びの時だったと思うのです。9歳年上で、かつては空軍士官でした。その彼との交流を通して、様々なことを教えられたからです。聞く耳を持つことができたといえるでしょうか。実に素晴らしい器でした。ともに働き始めたのは、その方が30代でしたから、互いに弱さもを見せ合った時期だったのです。その彼が前立腺の癌を発病したときに、彼の病床で互いに過去を詫び合うことがでました。残念ながら、2002年9月に召されました。彼は、「剣を取るものは剣で亡びる」と教えてくれました。その教えのゆえに、心の帯に差した鎌倉武士への郷愁の剣、予科練への憧れの剣を折って捨てることが出来たのです。ですから、『生きよ!』と呼びかける声を聞くことができたので、今日を生きられるのです。感謝なことであります。そんな時々を経て今日があるのですが、いつかもう少し詳細を語れる日が来ると信じています。

(写真は、「霞ヶ浦・土浦の自然から」、「サイパン島」、「ジェームス・ディーン」、「帆曳船が行く霞ヶ浦(霞ヶ浦地域の帆びき船のご案内)から」、「ジョージア工科大学の案内」です)

2009年1月12日月曜日

綺麗!



  ドナルド・キーンと司馬遼太郎の対談を記した、「世界の中の日本(中央公論社・1992年4月刊)」を読みました。アメリカ人で、日本文学を研究され、文化勲章の受賞歴のあるコロンビア大学名誉教授・キーンは、日本理解と日本の造詣の深さにおいては随一といわれるほどの方で、われわれ日本人以上に日本について詳しいのです。方や司馬は、産経新聞記者の経歴を持ち、「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」や「峠」などで有名な、直木賞作家です。




 中国のみなさんの日本についての強い印象の一つは、『日本は綺麗なんですってね!』と言うものです。何人もの方からお聞きしています。日本に留学し、日本を旅行され、知人や家族が旅行をされた経験談を聞いた方たちが、異口同音に言われることです。9年も10年も日本に留学された方が、『垣根が高くて、なかなか仲間に入れてもらえないで、とても寂しい思いをさせられました!』と言われるのですが、《日本社会の清潔さ》、《日本人の清潔好み》は一入感じておられるようです。『日本の建物や施設に、われわれの中国は勝るとも劣らないのです。でも東京の街を歩いてみて、街が綺麗なのには、どうしてもかないません!』と言うのです。




 このことについても、お二人が言及されていました。かつて、ザビエル来訪の時代のことですが、日本を訪ねた外国人、とくにポルトガル人は、日本の文化水準はヨーロッパに匹敵するし、実際は、それ以上だったと思っていたのだそうです。彼らが、もっとも驚いたのは、現代の中国の友人たちが言われるように、『日本人の生活が、まず清潔であることです!』だったのです。キーンが言うには、『・・日本のいえのなかが清潔でありすぎるから、どこでつばを吐いたらいいのか分からない!』と書き残しているのだそうです。司馬は、『ヨーロッパ人の清潔の歴史と言うのは、おそらくプロテスタントもしくはドイツ人の習慣の中から出来上がったと思いますが、それがアメリカに行って、度を過ごすほどになっていきますね。アメリカ人の清潔好きと言うのは大変な物ですが、日本の場合、独特に清潔でした。』といっています。




 そういえば、アメリカ南部のジョージアで、長く過ごした家内の姉から聞いたことですが、アフリカ系のみなさんに見られる1つの理由は、生活の仕方が清潔ではないことなのだそうです。これは人種差別の弁ではありません。家の内外のゴミの処理が、ヨーロッパ系の生活ぶりに比べて不十分なのだそうです。曽野綾子さんでしょうか、ヨーロッパでも、カソリック世界とプロテスタント世界では、はっきりとした違いがあることを言っておられましたが。後者のほうが、数段きれいで清潔なのだそうです。その宗教的な影響を受けていない日本が、ドイツ並みの清潔さにあふれているのはなぜなのでしょうか。『気候的な湿度の高さが、清潔を求めさせているのではないか!』と理由をあげる方がいますが、日本よりも湿度の高い国はいくらでもありますが、それらの国々が日本並みでないので答にはならないようです。司馬は、『・・・神道は教義も何もないのですが、清潔と言うことだけが教義なんです。だから、日本はおそらくずいぶん昔から清潔だったので・・・清浄こそこの世の最高価値で、もっとも尊いと思っている・・』といっています。




 中国に来ましてから、生活上、もっとも変わったことを上げると、風呂に入る回数が減ったことかも知れないのです(実際にはシャワーですが)。砂埃がありますし、夏場は蒸し風呂のように暑いのですが、朝晩に入っていた日本とは違って、二日おきになったりしてしまうのです。日本人がみなそうだとは思いませんが、住んでいる社会の必要性の違いかも知れませんね。もしかしたら、司馬の見解によりますと、神道に関心がないので、その心理的距離の遠さが入浴の回数を減らしているのでしょうか。『きれいにしておきたい!』と願うよりは、『さっぱりしたい!』のだと思うのです。そういえば父は風呂好きでしたし、身のまわりも、何時も清潔でした。Yシャツはクリーニング仕立てでしたし、靴も磨き上げを履き、散髪もたびたびしていましたし、無精ひげなど見たことがありませんでした。引き出しも整理整頓してありました。それにひきかえ、いつも「乱七八糟(くちゃくちゃして乱雑なこと)」な私は、誰の血を引いているのでしょうか、申し訳ないことであります。

(写真は、「仕事中のドナルド・キーン」、「竜馬がゆく」、「司馬遼太郎の直筆」、「鉄砲伝来時のポルトガル人」、「中国人の意識調査・清潔な国ランキング」です)

2009年1月10日土曜日

4時間半の旅



 私たちの住んでいる福州は華南地方で亜熱帯なのですが、冬季の朝晩には、やはり寒さを感じます。曇った風のある日などは、防寒具がどうしても必要なのです。東北地方とは違って、冬季には暖房設備(暖房用温水が太い循環パイプラインによって全戸に供給されています)がありませんから、それぞれの家は、各自暖房の工夫をしなければ成りません。それで、去年12月に入ってから、友人の車に乗せていただいて、電気店(日本チェーン店の"コジマ“や”ヤマダ”のような大型店)で電気温風ストーブを買いました。小型なのですが結構部屋の中を暖めてくれる”優れもの”です。
 そんな福州から、4時間半ほどのシンガポールの長女の所に、一昨日やって来ました。コートを脱ぎ、次にはセーター、シャツ、ズボン下と脱いでいったのですが、それでも汗が出るほどの暑さの世界にやって来たことになります。熱帯なのです。同じ大陸にある街なのに、その時間の差で、こんなに気候の違いがあることに驚かされるのですが、正直、体は喜んでいるのです。今が年間で一番涼しい時期なのだそうで、潮風が吹き抜けて一息つかせてもらっています。




 終戦で軍需工場が閉鎖された後、父は木材の会社を起こしたのですが、県有林の払い下げなどで知り合いになった、当時の県知事と懇意にしていていたようです。学校に上がる前に、私は肺炎に罹り、国立病院に入院したことがありました。この知事さんがお見舞してくれたことがあったのです。院長先生や事務方の人たちが、ぞろぞろとやって来たのを覚えています。この方が、知事を辞して、参議院選挙に打て出たときには、父がお手伝いをしていたことがありました。この知事さんが、戦時中、このシンガポールの市長をされていたことを父に聞いたのです。日本軍の支配下にあった国で、過去にはいろいろなことがあったことを歴史は伝えますが、かつてはジャングルと沼だったのだそうです。ところがイギリスの東インド会社が、ここに注目して、交易の中継拠点とするために買い取った島でした。英国領となったのが、1819年の2月のことでした。その後、英国の極東艦隊の基地となりますが、東南アジアに侵攻した日本軍によって占領されるのです。山下奉文軍司令官と英軍・パーシバル中将との会談において、英国軍は降伏し、シンガポールは日本軍によって1942年に陥落します。降伏後、この知事さんが市長として、行政を行ったわけです。シンガポールの日本軍による戦争被害も多大だったのですが、今、対日感情は良好のようです。華人たちの過去のいきさつに対する感情は複雑かも知れませんが、日本人を受け入れようとする努力には、中国本土のみなさん同様、驚かされるのです。




 そのような過去のある街、シンガポールで長女が働き始めて何年になるでしょうか、すっかり溶け込んで生活している様子を見て、安心させられます。中国の南にある「海南島」が、《中国のハワイ》と呼ばれるようですが、ここシンガポールも何となくハワイのたたずまいに似ているのを感じてなりません。とても過ごしやすさを感じます。私たち日本人は、どこでも自由に行き来することができ、どこでも活躍できる国なのですが、平和な関係が長く保たれることを願ってやみません。そんな思いに浸っている私の頬を、南国の潮風がなぜて、通り過ぎて行きます。間もなく、農暦(太陰暦)の「春節」を迎えるのですが、名物の《爆竹》も《花火》も、この国では、もう大分前からご法度なのだそうで、道路の上にイルミネーションで、春節・新年の祝いのモニュメントがあるのですが、そこに描かれている爆竹が炸裂していて、太鼓が叩かれて爆音の代わりをするだけなのだそうです。それで我慢するこの街の華人たちの南国にも、「春」が来ようとしています(1月8日記す)。

(写真は、「シンガポール・旅スケ)、「春節の《福》」、「春の花・桜」です)

2009年1月5日月曜日

『太平洋の架け橋になりたい!』



 《五千円札》の肖像として馴染み深いのが、「たけくらべ」で有名な樋口一葉ですが、以前の五千円紙幣には、新渡戸稲造が描かれていました。この稲造は、1862年9月1日、現在の盛岡市に、盛岡藩士・新渡戸十次郎の三男として生まれています。札幌農学校に学んだとき、クラークの感化を受けた上級生たちの強烈な影響を受けていますから、このころから国際人としての素養を身に着け始めていたことになります。同期に内村鑑三がおりました。農学校を出た彼は、東京大学、ジョンズ・ポプキンス大学(アメリカ・ボルチモア)、ハレ大学(ドイツ〉で学んでいます。専門は、「農政・農業経済学」でした。 帰国後、札幌農学校、一高、東京帝国大学、東京女子大学、東京女子経済専門学校などでは教授や校長として、後進の指導に当たっています。1920年に、ジュネーブに「国際連盟」が設立したときには、その事務局次長として選任され、東京大学在学時に,、『太平洋の架け橋になりたい!』と志して渡米したのですが、その願いがかなったことになります。世界を舞台にして、活躍した「国際人」としては、わが国では第一人者なのではないでしょうか。




 そんな彼の代表作が、「武士道」です。札幌農学校で教えていたときに、体調を崩した彼は夫人と共に、アメリカ・カルフォルニアで転地療養を行ったのですが、その時、1900年に英文で執筆したのです。日本と日本人への関心が、欧米で高まっていた時期でしたから、時宜を得たように刊行されたことになります。『日本と日本人を理解してもらいたい!』との稲造の願いをこめて執筆されたこの本は、発刊と同時にベスト・セラーとなり、欧米社会で大変注目されたのです。大統領だったセオドア・ルーズベルトやJ・F・ケネディーの愛読書だったようです。




 この「武士道」を読んで分かることは、武士礼賛、腹切り賛成、国粋主義の鼓舞ではないことです。私たちの日本の社会に台頭して来た武士階級によって、国が平定され、つい昨日まで、この国を支配してきた階層の「精神的支柱」がなんであるかを教えているのです。その精神の基盤というのは、長く文化的交流のある中国の思想であったことが語られています。孔子や孟子や老子の教えこそが、「武士道」の根源であるのだというのです。新渡戸自身、札幌農学校時代に同級生たちから、「アクチーブ(アクティブ=活動家)」という仇名をつけられるほど、激しい気質を持っていて、言い争いや殴り合いをするほどの激しい性格だったようです。ところがクラークの感化を受けた上級生との交わりやクラークが読むようにと勧めた「本」を読み始めて、彼はまったく変えられてしまいます。今度は、喧嘩をする者たちの仲裁役になるほど、穏やかな人になってしまたのです。




 次男が読んでいた、この本を、『もう一度!』と勧められて、改めて読んだのですが、前にはなかった感動を覚えたのです。その直後、浅田次郎の書いた、小説「壬生義士伝」を読む機会がありました。血なまぐさい新撰組の隊士・吉村貫一郎が主人公なのですが、新渡戸と同様、東北・盛岡藩の武士でした。ただ貫一郎は足軽(最下級の武士)だったのです。徳川の封建制度の崩壊と欧米諸国の開国の促しに、勤皇・佐幕が激突する幕末を生きた、一人の本物の「武士」を描き出しているのです。新渡戸の言おうとしていることと、吉村の生き方との間には、どう関連付けていいのか分からない点がありますが、何か大きな課題を与えられたように思わされたのです。この両者には、どこかに接点があったのではないかと思わされるのですが、かたや小説ですから。貫一郎の末の息子(父を知らない子です)が、東京帝国大学の農学部に学び、飢饉と凶作に見舞われる東北の米作に、災害に強い品種の改良をするのですが、家老職についていた幼馴染の配慮で、越後の名主宅に預けられたり、東大を退官後、盛岡農業学校の教授として赴任する下りはなかなか泣かせられました。




 今、ここ福州の師範大学で、留学生として学びながら、日本の大学院に籍を置き、中国の農業をテーマに修士論文を書いている青年が、『ぜひ貸してください!』とのことで、この「武士道」を読んでいます。きっと現代の若者の《心の琴線》に触れることがあるのだろうと、とても楽しみにしております。

(写真は、「南部藩・盛岡城址」、「別冊宝島994号「NITOBE武士道を英語で読む」、「旧五千円札の新渡戸稲造」、「文春文庫・壬生義士伝」、「琴・宇部市HP」です)

2009年1月2日金曜日

雑煮とケーキ・・・友の味!



  暮に、白と黄色のマーガレットと紫色の花を開かせる蕾のような花(名前が難しくて覚えられないのですが)と霞草が、花瓶に生けられて、テーブルの上に置かれました。大陸での三回目の正月を迎えて、花のある部屋の風情は、とても心を落ち着かせてくれます。その花をめでながら、家内の妹の送ってくれた餅を焼いて、海苔を巻き、黄な粉をまぶして、今、食べたところです。こちらでは、米の粉で作られた「年糕nian gao」と呼ばれているものを食べるのですが、どうも物足りません。どうしても「もち米」でついた餅が、正月には似合っていて、平安時代に起源があるようですが、やはり日本の味覚なわけです。




 昨日の元旦に、沖縄、石川、埼玉、神戸からやって来て中国を学びながら、大学や専門学校の教壇に立って、日本語を教えておられる方たちを我が家にお招きして、「雑煮会」をもちました。家内が腕を振るう予定でしたが、少々風邪気味でしたので、急遽、私が作ることにしたのです。9時過ぎ、近所に、市内でチェーン店を展開している「永輝超市」という名のスーパー・マーケットがあって、そこに買出しに行ってきました。本来なら、「関東風」の鶏肉と小松菜と三つ葉でしょうゆ味のあっさりした「お雑煮」を作りたかったのです。父が横須賀の出身ですから、山陰・出雲の出身の母は、父好みの雑煮を、何十年と作り続けてきましたから、その味に慣れ親しんできた私は、真似て作ることが出来るのです。ところが、こちらでは小松菜も三つ葉も売っていないのです。それで、「すき焼き風」というのでしょうか、「吉野屋風」と言うのでしょうか、初めて味の濃い雑煮を作ってみたのです。醤油と砂糖と老酒と鳥のだし作りのだし汁に、牛肉、鶏肉、長ネギ、筍、にんじん、しいたけ、エリンギ、白菜、緑豆のもやしを入れて作ってみました。われながら、自画自賛になりますが、結構美味しく出来たようです。みなさん、故国を離れて久しいので、日本料理が懐かしかったのでしょうか、美味しそうに食べてくれました。




 持参してくださった果物を食べながら、交わりの一時を持って、3時間近くまでいて帰って行かれました。私たちの子どもも、留学経験がありますから、異国の地での日本料理は、ことのほか郷愁を誘うものなのでしょうか。一世代前に学んだ彼らのことを思い出しながら、この留学生たちを励ましたかったわけです。第一陣が帰ったのと入れ替わりに、もう一陣がやって来られました。お菓子のセットや大きなケーキを持参してくれました。小学生2人と大人7人の友人たちでした。6時ごろまでいらっしゃったでしょうか、日本語と中国語を駆使しながら、よい交わりのときでした。『日本風に、新年のご挨拶にうかがいたいのですが!』と年末に連絡があっての来訪でした。こちらに来る前は、こういった友人たちの交わりなど予想もしませんでした。家内と二人で、ひっそりと生活するのだとばかり思っていましたから、賑々しく元旦を迎えられるのは実に感謝なことであります。これって、日中友好の一環ですよね。




 大きな大陸の片隅で、住む家があり、着る物が備えられ、食べ物があって、友人や隣人までもでき、さらに健康も与えられているのですから、何と恵まれていることでしょうか。私の愛読書に、「・・・近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。」と読んだことがあります。もちろん、親兄弟のつながりは大切ですが、異国の隣人たちの親切は、やはり身にしみて感謝なものであります。同胞と隣人たちとの「新年会」に感謝して。亜熱帯で、雪の降らない福州では、冬の花である雪中花といわれる水仙は、どこにも見当たらないのが残念です。
 「初雪や 水仙の葉の たはむまで   芭蕉 」

(写真は、「マーガレット《みやこどりの部屋》」、「お雑煮《koik:af:e blog》」、「デコレーション・ケーキ《シェ・ヒロコ製》」、「水仙《みんなの花300》」です)

2009年1月1日木曜日

はな、ハナ、花、華、そして鼻

 

 不思議でならないのが、秋の到来を告げるように咲いていた記憶のある「金木犀」が、ここ福州の我が家の裏庭の片隅で、1月1日なのに、無数に花を開かせていることなのです。結構、しっかりと感じられる香りをあたり一面に放っております。原産地は、中国の華南地方ですから、ご当地花になるのですが、こちらでは「丹桂(タン・グイ)」と呼ばれ、花茶として茶葉に混ぜたり、ワインに漬け込んだりするようです。小学校の行き帰りに、毎年かいだ記憶があるのです。そんな半世紀も時が過ぎたのに、海を隔てた大陸の片隅に咲く花の香りが、思い出を連れ戻してくれるのですから、人の嗅覚を伴う記憶力には驚かされてしまいます。『あ、この光景、いつかどこかで見たおぼえがある!』、『あ、この臭い、どこかでかいだ記憶がある!』と、よく思うのですが。




 次女が保育園に入園したときに、「ライラック」の苗木をもらって帰って来ましたので、当時、私の事務所のあった建物の道路際の小さな庭に植えたのです。この花木も、4月から5月のころには、花を咲かせて、芳しい香を、そこかしこに放っていました。私たちが、35年の間、過ごした任地を去る直前に、どなたかの手で、ライラックが切り取られてしまったのです。とても残念で、ただ思い出だけが香ってくるだけになってしまいました。フランス語では「リラ」と呼ばれていて、ヨーロッパ原産のようです。日本へは、アメリカ人の手で持ち込まれたそうです。これも、幼いころの子どもたちの、あどけない笑顔を思い出させる花なのです。




 4年前の2月の早朝に、自転車から転倒して、右腕の腱板を断絶してしまう大怪我をしてしました。痛みが引いた後、神経はつながっていたのですが、ぶらり下がった手は、私の命令をもう聞いてくれませんでした。それで、振り上げて手を上げていました。1週間後に、MRI検査をして断裂が分かったのです。市立病院の専門医が紹介され、入院手術をすることになりました。全身麻酔で手術をしたのですが、気が遠のくような痛さを術後に味わい、数週間も添え木をつけて腕を上げた状態で過ごしました。その入院した病院の病室で、同い年で事情のあった同室の男性が、私の友人のお兄さんだったのです。それはじつに不思議な出会いでした。その添え木で過ごしていたころに、桜が満開だったのです。この花には香りはありませんでしたが、「春爛漫」と言うことばがピッタリなように、入院先の病院の庭に咲き誇っていました。この桜は、『右腕が、以前のように使えるようになるだろうか?』と不安に思いながら、その後リハビリを半年も続けたのを思い出させるのです。




 ハワイに行きましたときに咲いていたのが、「ハイビスカス」でした。アオイの一種なのですが、真っ赤な花びらは、常春のハワイには一番似合っている花ではないでしょうか。長男と次女が、それぞれ16才の夏に、ハワイ州ハワイ島のヒロの高校に入学したときに、ハワイ島のそこかしこで咲き誇っていたと思います。今夏、住み始めました家を出て、しばらく道路を歩いて行きますと、道路の左側に、この花が咲いているのです。季節外れではないと思いますが、真っ赤な蕾を沢山つけているのです。16だった息子と娘の顔が浮かんでくるようです。




 甲府盆地から富士五湖に抜けていく道の途中に、芦川という小さな村があります。その山間部に入りますと、小さな「スズラン」が群生している箇所があるのです。この花もヨーロッパが原産なのですが、日本種もあって北海道に多く見られるのですが、山梨県にも自生しているようです。可憐ですが、何となく趣があって、可愛いらしく咲いている様子は、いたいけないのですが、《Wikipedia》によりますと、『・・・フランスでは、5月1日をスズランの日とも呼び、好きな人やお世話になっている人へスズランを贈り、スズランを贈られた人は幸せになるといわれている。 』とあります。誰にも、このスズランを上げたい思いにされています。

 それにしても、「元旦」の亜熱帯には、秋を思い出させる「金木犀」が咲いているのですから、うれしい限りです。そんな香りを楽しみつつ、今年は、金木犀にあやかって、もう一花咲かせてみたいと願うのです。できれば、「謙遜」とか「親切」とか「忍耐」の花を、さらには人を楽しくうれしくさせるような実のなる花も咲かせてみたいものです。お昼に5人、2時半に9人の来客を迎えた年明けの夕べであります。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。