2009年1月22日木曜日

『あの子はだあれ・・・』



  『あのこはだあれだれでしょね?』と歌い出しの童謡があります。その最後が、『となりのみよちゃんじゃないでしょか!』ですが、この頃では、携帯電話の着歌メロディーの中にもあるようです。四人兄弟の三男坊の私は、『姉や妹がいたらなあ!』と思うことがよくありましたが、いたのは兄二人、弟一人で、実にがさつな家庭で育ったのだと思います。兄たちも弟も、同じように感じていたに違いないのでしょうけど。山奥に住んでいたときに、隣に一級上の女の子がいましたし、東京に出てきてからは近所に一級下の女の子がいました。『みよちゃん!』ではなかったのですが、誰よりも、身近に感じた姉のような妹のような幼馴染だったと思うのです。




 兄二人が結婚して姉ができ、弟の奥さんは妹のように感じたのですが、一緒に育ったわけではないので、やはり義姉であり義妹だったわけです。やはり男兄弟4人というのは、実にすさまじいものがあったのです。その上、子どものような父がいましたから、母は5人の息子の世話をやいていたことになるのでしょうか。3番目の私が生まれるときには、女の子を望んでいたようですが、裏切られてしまい、4人目もだめでした。母は一人娘で兄弟姉妹のない家庭で育ったので、男ばかりの家庭が、これほどまで激しくて荒いものだとは思ってみなかったのではないでしょうか。でも、母は年をとるにつれて、私たちを頼もしく感じているようです。




 その母に、『若いころに流行っていた歌謡曲は、どういうのがあるの?』と聞いたことがありました。高校生のころだったと思います。昭和10年(1935年)ですから、母が18才ほどのときに、児玉好雄が歌った「無情の夢」という歌だったのです。歌謡曲を歌う歌声など、ついぞ聴いたことはありませんでしたが、娘時代を思い出しながらでしょうか、哀調を込めて歌ってくれました。結構上手でした。ふるさとの町、近所にあこがれていた男性がいたのでしょうか、母のアルバムの中に、江田島の海軍兵学校の軍服を着た、凛々しい若者の写真を見たことがありました。父の写真ではありませんでした。この歌は、『あきらめましょうと 別れてみたが 何で忘りょう 忘らりょうか 命をかけた恋じゃもの 燃えて身を灼く 恋ごころ 』という歌詞でした。まだこういった恋に落ちる経験はありませんでしたし、『いつかこんな燃え立つような恋をしてみたい!』とは思わされたのですが、歌のような、映画のような恋をすることなく結婚をいたしました。




 24歳の時、一組の夫婦が私のいた職場にやって来られました。私の上司の話によりますと、この奥さんは、夫や子どもがいたのに、恋に落ちて、そのご主人の元に走ったのだというのです。『私は七たび生まれ変わっても、あなたの妻になります!』と言っておられるとのことでした。そんな小説を生きているような二人を、興味津々眺めながら、お話を聞いていたのです。『大人の世界には、そんな恋ってあるんだな!』と思わされましたが、青年の私の目に魅力を感じませんでした。誰かが、どこかで不幸せになっていて、ここにいる二人の幸せがあるというのは腑に落ちなかったからです。多くの人と出会ってきて、いまだにかしげた首が戻らない二人なのです。




 娘たちに言わせますと、私たちは《ナイスカップル》なのだそうです。自分たちの友人が離婚したり、両親も別れるといった、いくつもの結婚の厳しい現実を目にしながら、今は、大人の目で両親を見ていて、そう言ってくれるのです。軽率な結婚も、大恋愛の末の結婚も、見合いだって、親の決めた結婚だってあるのですが、何十年もの年月が過ぎて、互いの弱さを知り尽くしてもなお、労わり合いながら、支え合っている夫婦は、そう映るのでしょうか。
 それにしても、20代に出会ったあの異様な二人の結末が気にかかるのですが。母よりも一世代以上は若かったのですから、まだ元気のことでしょう。『まだ、生まれ変わって七たびも、彼の奥さんになりたいですか?』と聴いてみたい思い駆られるのですが。これって余計のお世話ですよね。

(写真は、「水仙」、「1935年に発行された上海の絵葉書」、「昔の上海」、「江田島」、「福州・森林公園の蓮の花」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。