2009年1月5日月曜日

『太平洋の架け橋になりたい!』



 《五千円札》の肖像として馴染み深いのが、「たけくらべ」で有名な樋口一葉ですが、以前の五千円紙幣には、新渡戸稲造が描かれていました。この稲造は、1862年9月1日、現在の盛岡市に、盛岡藩士・新渡戸十次郎の三男として生まれています。札幌農学校に学んだとき、クラークの感化を受けた上級生たちの強烈な影響を受けていますから、このころから国際人としての素養を身に着け始めていたことになります。同期に内村鑑三がおりました。農学校を出た彼は、東京大学、ジョンズ・ポプキンス大学(アメリカ・ボルチモア)、ハレ大学(ドイツ〉で学んでいます。専門は、「農政・農業経済学」でした。 帰国後、札幌農学校、一高、東京帝国大学、東京女子大学、東京女子経済専門学校などでは教授や校長として、後進の指導に当たっています。1920年に、ジュネーブに「国際連盟」が設立したときには、その事務局次長として選任され、東京大学在学時に,、『太平洋の架け橋になりたい!』と志して渡米したのですが、その願いがかなったことになります。世界を舞台にして、活躍した「国際人」としては、わが国では第一人者なのではないでしょうか。




 そんな彼の代表作が、「武士道」です。札幌農学校で教えていたときに、体調を崩した彼は夫人と共に、アメリカ・カルフォルニアで転地療養を行ったのですが、その時、1900年に英文で執筆したのです。日本と日本人への関心が、欧米で高まっていた時期でしたから、時宜を得たように刊行されたことになります。『日本と日本人を理解してもらいたい!』との稲造の願いをこめて執筆されたこの本は、発刊と同時にベスト・セラーとなり、欧米社会で大変注目されたのです。大統領だったセオドア・ルーズベルトやJ・F・ケネディーの愛読書だったようです。




 この「武士道」を読んで分かることは、武士礼賛、腹切り賛成、国粋主義の鼓舞ではないことです。私たちの日本の社会に台頭して来た武士階級によって、国が平定され、つい昨日まで、この国を支配してきた階層の「精神的支柱」がなんであるかを教えているのです。その精神の基盤というのは、長く文化的交流のある中国の思想であったことが語られています。孔子や孟子や老子の教えこそが、「武士道」の根源であるのだというのです。新渡戸自身、札幌農学校時代に同級生たちから、「アクチーブ(アクティブ=活動家)」という仇名をつけられるほど、激しい気質を持っていて、言い争いや殴り合いをするほどの激しい性格だったようです。ところがクラークの感化を受けた上級生との交わりやクラークが読むようにと勧めた「本」を読み始めて、彼はまったく変えられてしまいます。今度は、喧嘩をする者たちの仲裁役になるほど、穏やかな人になってしまたのです。




 次男が読んでいた、この本を、『もう一度!』と勧められて、改めて読んだのですが、前にはなかった感動を覚えたのです。その直後、浅田次郎の書いた、小説「壬生義士伝」を読む機会がありました。血なまぐさい新撰組の隊士・吉村貫一郎が主人公なのですが、新渡戸と同様、東北・盛岡藩の武士でした。ただ貫一郎は足軽(最下級の武士)だったのです。徳川の封建制度の崩壊と欧米諸国の開国の促しに、勤皇・佐幕が激突する幕末を生きた、一人の本物の「武士」を描き出しているのです。新渡戸の言おうとしていることと、吉村の生き方との間には、どう関連付けていいのか分からない点がありますが、何か大きな課題を与えられたように思わされたのです。この両者には、どこかに接点があったのではないかと思わされるのですが、かたや小説ですから。貫一郎の末の息子(父を知らない子です)が、東京帝国大学の農学部に学び、飢饉と凶作に見舞われる東北の米作に、災害に強い品種の改良をするのですが、家老職についていた幼馴染の配慮で、越後の名主宅に預けられたり、東大を退官後、盛岡農業学校の教授として赴任する下りはなかなか泣かせられました。




 今、ここ福州の師範大学で、留学生として学びながら、日本の大学院に籍を置き、中国の農業をテーマに修士論文を書いている青年が、『ぜひ貸してください!』とのことで、この「武士道」を読んでいます。きっと現代の若者の《心の琴線》に触れることがあるのだろうと、とても楽しみにしております。

(写真は、「南部藩・盛岡城址」、「別冊宝島994号「NITOBE武士道を英語で読む」、「旧五千円札の新渡戸稲造」、「文春文庫・壬生義士伝」、「琴・宇部市HP」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。