2009年1月12日月曜日

綺麗!



  ドナルド・キーンと司馬遼太郎の対談を記した、「世界の中の日本(中央公論社・1992年4月刊)」を読みました。アメリカ人で、日本文学を研究され、文化勲章の受賞歴のあるコロンビア大学名誉教授・キーンは、日本理解と日本の造詣の深さにおいては随一といわれるほどの方で、われわれ日本人以上に日本について詳しいのです。方や司馬は、産経新聞記者の経歴を持ち、「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」や「峠」などで有名な、直木賞作家です。




 中国のみなさんの日本についての強い印象の一つは、『日本は綺麗なんですってね!』と言うものです。何人もの方からお聞きしています。日本に留学し、日本を旅行され、知人や家族が旅行をされた経験談を聞いた方たちが、異口同音に言われることです。9年も10年も日本に留学された方が、『垣根が高くて、なかなか仲間に入れてもらえないで、とても寂しい思いをさせられました!』と言われるのですが、《日本社会の清潔さ》、《日本人の清潔好み》は一入感じておられるようです。『日本の建物や施設に、われわれの中国は勝るとも劣らないのです。でも東京の街を歩いてみて、街が綺麗なのには、どうしてもかないません!』と言うのです。




 このことについても、お二人が言及されていました。かつて、ザビエル来訪の時代のことですが、日本を訪ねた外国人、とくにポルトガル人は、日本の文化水準はヨーロッパに匹敵するし、実際は、それ以上だったと思っていたのだそうです。彼らが、もっとも驚いたのは、現代の中国の友人たちが言われるように、『日本人の生活が、まず清潔であることです!』だったのです。キーンが言うには、『・・日本のいえのなかが清潔でありすぎるから、どこでつばを吐いたらいいのか分からない!』と書き残しているのだそうです。司馬は、『ヨーロッパ人の清潔の歴史と言うのは、おそらくプロテスタントもしくはドイツ人の習慣の中から出来上がったと思いますが、それがアメリカに行って、度を過ごすほどになっていきますね。アメリカ人の清潔好きと言うのは大変な物ですが、日本の場合、独特に清潔でした。』といっています。




 そういえば、アメリカ南部のジョージアで、長く過ごした家内の姉から聞いたことですが、アフリカ系のみなさんに見られる1つの理由は、生活の仕方が清潔ではないことなのだそうです。これは人種差別の弁ではありません。家の内外のゴミの処理が、ヨーロッパ系の生活ぶりに比べて不十分なのだそうです。曽野綾子さんでしょうか、ヨーロッパでも、カソリック世界とプロテスタント世界では、はっきりとした違いがあることを言っておられましたが。後者のほうが、数段きれいで清潔なのだそうです。その宗教的な影響を受けていない日本が、ドイツ並みの清潔さにあふれているのはなぜなのでしょうか。『気候的な湿度の高さが、清潔を求めさせているのではないか!』と理由をあげる方がいますが、日本よりも湿度の高い国はいくらでもありますが、それらの国々が日本並みでないので答にはならないようです。司馬は、『・・・神道は教義も何もないのですが、清潔と言うことだけが教義なんです。だから、日本はおそらくずいぶん昔から清潔だったので・・・清浄こそこの世の最高価値で、もっとも尊いと思っている・・』といっています。




 中国に来ましてから、生活上、もっとも変わったことを上げると、風呂に入る回数が減ったことかも知れないのです(実際にはシャワーですが)。砂埃がありますし、夏場は蒸し風呂のように暑いのですが、朝晩に入っていた日本とは違って、二日おきになったりしてしまうのです。日本人がみなそうだとは思いませんが、住んでいる社会の必要性の違いかも知れませんね。もしかしたら、司馬の見解によりますと、神道に関心がないので、その心理的距離の遠さが入浴の回数を減らしているのでしょうか。『きれいにしておきたい!』と願うよりは、『さっぱりしたい!』のだと思うのです。そういえば父は風呂好きでしたし、身のまわりも、何時も清潔でした。Yシャツはクリーニング仕立てでしたし、靴も磨き上げを履き、散髪もたびたびしていましたし、無精ひげなど見たことがありませんでした。引き出しも整理整頓してありました。それにひきかえ、いつも「乱七八糟(くちゃくちゃして乱雑なこと)」な私は、誰の血を引いているのでしょうか、申し訳ないことであります。

(写真は、「仕事中のドナルド・キーン」、「竜馬がゆく」、「司馬遼太郎の直筆」、「鉄砲伝来時のポルトガル人」、「中国人の意識調査・清潔な国ランキング」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。