2009年1月28日水曜日

『天使のような外交官!』


  
 かつて、杉原千畝(ちうね・1900~1986)と言う外交官がいました。日本よりも、イスラエルで有名な方ですが、ご存知でしょうか。第二次世界大戦下のリトアニア(旧ソ連に属しポーランドと国境を接しています)というヨーロッパの小国で、領事を務めておられた方です。ヨーロッパを狂気の渦に巻き込んだ、ナチス・ドイツが侵略したポーランドから逃れて来たユダヤ人がたくさんいました。そんな彼らに、日本通過査証(ビサ)を発給した外交官が、杉原千畝です。戦時下の外務省は、彼らへの査証は、条件を満たした者だけに発給する規定があったのですが、領事としての権限と、人道上の理由から、博愛に富む彼は査証の発給を強行します。1940年9月のドイツに移るまでの50日の間、妻の幸子と、資格のないユダヤ人申請者たちのために査証を書き続けたのだそうです。さらに、「領事特別許可証(査証よりも記載が簡潔な緊急時の査証の一種)」を発給します。ベルリンへの汽車の発車直前まで、カウナス駅のプラットホームで書き続けたとのことです。実に、その発給の総数は2139枚、およそ6000人の命がナチス・ドイツの魔手から救出されたことになります。それは、外交官としては処罰されるべきあるまじき行為だったのですが、それを恐れずに日夜、自筆し続けたことになります。査証を入手したユダヤ人は、日米関係がまだ良好な時期に、そこからシベリヤ鉄道でウラジオストックに行き、日本の敦賀港に逃れ、そこからアメリカに渡ったのです。その後、アメリカに行くことのできなくなったユダヤ人は、上海の租界に落ち着き、敗戦とともに自由を得たのです。



 
 戦後、帰国した彼は、そのことが原因したからでしょうか、または省内の人員整理が行われたからでしょうか、外務省を解雇されたのです。それで杉原は、不遇の戦後をひっそりと生きます。一方、査証の発給を受けたユダヤ人たちは、千畝の足取りを追っていました。1962年のことです、千畝はイスラエル大使館から呼び出されます。大使館を尋ねた千畝は、ニシュリという参事官から、1枚のボロボロになった紙を見せられたのです。それはリトアニアで書き続けた、あの査証の1枚でした。その参事官ニシュリはその査証によって、アメリカに逃れて生き延びることができたのです。彼は、千畝の手を固く握って、涙を流して感謝を表したのです。




 1985年、千畝はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授与されるのです。それは驚くほどの栄誉ある出来事だったと言えます。誰にも知られることのない隠れた善行が、日本の社会に知らされるきっかけとなったのが、この賞の授与だったのです。しかしこの時、千畝は病床にありました。そして翌年の1986年に召されます。規則破りの外交官としての所業は好ましいものではないのですが、法よりも規則よりも、人の命の重さを知っていた千畝の行為は、賞賛に値するものがあります。勇気ある《人道上の決断》だったと言えないでしょうか。轟々たる非難を浴びる戦時下の日本と日本人だったのですが、千畝のような日本人がいたことは、溜飲の下がることだったといえないでしょうか。周りや人の顔を気にする傾向の強い日本人の中で、ご自分の信念を貫いて生きたことに驚かされながらも、素晴らしいことだったわけです。実に爽快な人間らしい行為に拍手喝采を送りたいのです。





 彼の銅像が、アメリカのロスアンゼルスにあります。2002年に行われた除幕式に、彼の長男・千暁が招かれていますが、その席で千暁の語ったことばの中には、父の《信条上の理由と確信》が語られていたのです。また、エルサレムにある「虐殺記念館(ヤド・バシェム)」の敷地には、千畝の善行を記念し、感謝を表した木が植樹されているそうです。千畝によって狂気のヨーロッパから逃れた人たちは、彼を『救世主』とか『天使』と言って、大きな感謝を表明されています。千畝のような日本人がいたことは、私たちの誇りですし、彼のように生きるように、私たちは挑戦されているのではないでしょうか。千畝は、『私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった 』、『人間にとっていちばん大切なのは、愛と人道だ!』と言うことばを残しています。



(写真は、「地図上の赤い箇所が『リトアニア共和国』」、「杉原千畝」、「千畝の発給した査証」、「千畝が査証を書き続けたマウナス駅のプラットホーム」、「査証の発給を求めたユダヤ人のみなさん」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。