2009年1月17日土曜日

心の帯に刺した二本の剣



 『希望にあふれる新年を迎えまして・・・』と、毎年、新年の挨拶状を送るのですが、2009年の現実は、《希望あふれる》ことには程遠いように感じられます。私たちの同胞の自殺者数は、2008年も3万人を大きく上回っていると報じられていたからであります。自動車事故による死者の数が、法改正によってでしょうか、5000人台に半減したのに、自死する人の数がこの10年、3万人を上回っている現実に、世界の関心が寄せられています。同じ日本人として、実に由々しき問題であります。中国の自殺が、農村部の女性の農薬自殺、アメリカの自殺が、青少年の銃による自殺を特徴的に表すように、日本的自殺の特徴がいくつか上げられていますが、その1つは、《名誉に関わるもの》があるそうです。『生き恥をさらすこと!』への恐れのことでしょうか、「恥の文化」が人を死の淵に追いやるのでしょうか、自ら死ぬことによって不問に付して、「潔し」とするようです。《人の目》や《人の噂》を気にして生きる日本人だからでしょうか。




 葉隠れの中に、『武士道とは死ぬことと見つけたり!』とあります。3年間、担任(社会科)をしてくださったK先生の特別講義が映画鑑賞とともに視聴覚教室で行われたのです。半世紀も前のことになりますが。サイパン島だと思うのですが、アメリカ軍の戦艦から撮影された映像が映し出されていました。海岸の絶壁から、婦人たちが飛び降り自殺を次から次へとしていたのです。死に切れなかった方が、もう一段飛び降りていくといった、中学生の私たちには実に衝撃的な映像だったのです。軍人たちが、《軍人訓》に従って、捕虜になる恥をさらさないために死んでいくのではなく、民間人が、ああやって死に行こうとしていた姿は、驚愕そのものでした。自発的だったのでしょうか、軍部の命令なのでしょうか、あのようにして死に逝く様は、決して美しくありませんでしたし、潔くもなかったのです。この先生が、『日本人は、死ぬことを恐れない。命令に対して絶対服従する。野蛮行為を平気で出来るのです。この三拍子が揃っている日本人ほど、兵隊に向いた民族はないのです!』と付け加えました。担任は、戦後を生きて行く私たちに、重い課題を負わせ、過去を直視するようにされたのだと思うのです。




 「愛国心」と言う思いが、何時ごろ芽生え始めるのでしょうか、自分のこと、自分の幸福だけを考えている時代を過ぎて、家族や国家などに思いを向けらるようになる年齢がいくつくらいからなのでしょうか。私の場合は、中学のときだったと思うのです。平和憲法の下で教育を受け、新しい教育法のもとで教育を受けてきた私でしたが、父の世代よりも若い世代が、祖国のために軍隊に勇躍志願し、国防の思いを熱くして、死ぬことを恐れずに「海軍予科練習生」となって行った人たちのことを知って、彼らに大いに憧れたのです。15年、20年ほど前の同世代の青少年たちが、そのように死んで逝ったことに心を打たれたからでした。もちろん海軍の家に育った父の血なのかも知れませんが。そんな軍国少年の志をもって、少年期を過ごしたのです。文明国アメリカの物質文明への憧れと、かつての敵国アメリカ人への憎悪とが思いの中にあって、終始一貫しない矛盾した心を持って、少年期を過ごしていたのです。映画のスクリーンに映し出されるジェムス・ディーンに憧れると思えば、アメリカ兵を喧嘩に挑発するといった矛盾だらけの青年期でした。



 当時、『主義や理想や信条のために俺は死ねる!』と言う、あの「特攻精神」が宿っていたように思います。そういった死に憧れてもいたからでしょうか。ところが、そんな矛盾した私の周りには何人ものアメリカ人がいたのです。母と懇意にしていた方たちでした。我が家にも時々来られたのです。そして、その一人の方の事業の展開のために、それまでの仕事を私は辞めて、転職してしまったのです。これも矛盾の中の選択だったと思うのですが。その1年ほど前になりますが、26のときに、私は佳人を得て結婚しました。彼女との新婚旅行に、「霞ヶ浦」を選んだのです。『もっとロマンチックな場所を選べばよかったのに!』と後で思ったのかと言いますと、そうではありませんでした。そこしか考えられなかったのです。家内には申し訳なかったのですが。霞ヶ浦を潮来に向けて船で渡ったのです。特攻機の機影を映した湖面を、船は静かに動いていきました。それは軍国少年の亡霊の葬りの旅でした。そうしなければ結婚生活が出来ないように感じたからなのです。



 
 あのアメリカ・ジョージア出身のアメリカ人実業家と過ごした7年間は、私にとって軌道修正の学びの時だったと思うのです。9歳年上で、かつては空軍士官でした。その彼との交流を通して、様々なことを教えられたからです。聞く耳を持つことができたといえるでしょうか。実に素晴らしい器でした。ともに働き始めたのは、その方が30代でしたから、互いに弱さもを見せ合った時期だったのです。その彼が前立腺の癌を発病したときに、彼の病床で互いに過去を詫び合うことがでました。残念ながら、2002年9月に召されました。彼は、「剣を取るものは剣で亡びる」と教えてくれました。その教えのゆえに、心の帯に差した鎌倉武士への郷愁の剣、予科練への憧れの剣を折って捨てることが出来たのです。ですから、『生きよ!』と呼びかける声を聞くことができたので、今日を生きられるのです。感謝なことであります。そんな時々を経て今日があるのですが、いつかもう少し詳細を語れる日が来ると信じています。

(写真は、「霞ヶ浦・土浦の自然から」、「サイパン島」、「ジェームス・ディーン」、「帆曳船が行く霞ヶ浦(霞ヶ浦地域の帆びき船のご案内)から」、「ジョージア工科大学の案内」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。