2009年1月23日金曜日

バーべQに誘ってくださる理由(わけ)



  1902年に、アメリカのシカゴで始まりました社会奉仕団体に、「ロータリー・クラブ」があります。日本支部は、1920年に、三井銀行の重役であった米山梅吉らにより、東京に設立されております。第二次世界大戦よる中断がありましたが、戦後まもなく復興され、現在クラブ数2,314、会員数97,822人(2008年5月末)にも上るのだそうです。この創始者の米山梅吉の没後、彼の功績を記念して、アジア諸国からの私費留学生のための国際奨学金制度を設けたのです。「米山奨学金(正式には〈ロータリー米山記念奨学会)」と呼ばれていまして、これまで数多くのアジアの留学生が、その恩恵に預かっておられるのです。




 そういえば家内も、日本育英会(現・日本学生支援機構 )の奨学金を受給して学校で学んだと言っておりました。彼女のように奨学金を受けた人は、その返済の義務を負っているのですが、公立機関に就職しますと免除されるそうです。家内は市立の保育園に就職しましたので、返済を免除されたのですが、そんな恩典を受けた多くの奨学生が、その返済を怠っているのだそうです。過半数だと聞きますが。奨学金の収支に赤字が出ていると、ニュースが伝えているのですが、けしからんことであります。返還された奨学金が、また新たな奨学生を援助できることを考えるなら、ぜひとも返済してほしいものです。奨学金をもらえるほど優秀でなかった私は、アルバイトをして授業料を稼いで支払ったのですが。




 さて、天津の語学学校で学んでおりました2007年の3月末に、学校の一週間の休みを利用して、福建省の厦门(シャー・メン)と福州にいる友人を訪問したのです。福州の近くにある町で、障碍をもたれた子どもさんたちのお世話をしておられたご家族の家に泊めていただきました。そのとき、『福州に来ませんか。私の友人が福建師範大学海外教育学院で院長をしていますので、そこで学ばれたらどうでしょう!』と勧めてくれたのです。二転三転、悩んだ末、結局、引越しを決断したのです。福州に来まして間もなく、一人の中国人の女性から連絡がありました。食事に招いてくださったのです。福州の隣町の出身で、日本語の実にお上手な方です。彼女は、広島大学・大学院に留学して、博士号を得て、中国に帰られ、福建師範大学に教員として働いていたるのです。私たちがお会いしたのは、帰国して3年ほどたっていたと言っていました。いろいろとお話しをお聞きするうちに、この方が、広島におられたときに、その「米山奨学金」を受給されたのだそうです。コンビニや町工場でアルバイトをしながら学んでいた彼女には、その給付は大変な助けであって、大変感謝をされておいででした。その彼女の友人が、昨年の暮れに福州を訪ねて来られて、我が家にも訪問してくださって、一緒に食事をしたりお交わりをしたのです。この方も同じ米山奨学金を受けておられて、日本に対して好印象をお持ちでした。



 こういった形で、アジア諸国の次の時代を担おうとされている留学生に、経済的な援助をしておられることは、実に尊いことだと思わされるのです。隣人愛や経済利益の還元と言う形でも、開発途上国の優秀な人材養成に寄与していることを、このお二人との出会いを通して、ひしと感じることができたのです。米山梅吉は、江戸から明治に変わっていく1868年に、武家の子として江戸の藩邸で誕生しています。篤い人情の持ち主で、多くの方に慕われ敬われたのだそうで、実業界でも大いに用いられた方なのです。そういった好意を受けられた方が、今度は、日本からやって来ました私たちに、何かといって好意を示していてくれるのです。私たちの子どもの世代の方が、私たちの保護者のようにして、何かと気遣ってくださって、食事にお招きくださったり、必要なところにお連れ下さったり、バーべQやハイキングなどにもお誘いくださるのです。中日の友好が、こういった形でもなされていて、そのような恩恵に私たちがあずかれるのは、彼女たちの感謝を生み出した、その「米山奨学会」にあるのだと言えるのではないでしょうか。106カ国の若者たちの向学心に援助しているのには、感服の至りであります。

(写真は、「天津の語学学校」、「米山梅吉氏」、「百年の歴史を持つ福建師範大学・現在は海外教育学院の教室として使用されています」、「広島大学大学院・法学部校舎」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。