2009年1月10日土曜日

4時間半の旅



 私たちの住んでいる福州は華南地方で亜熱帯なのですが、冬季の朝晩には、やはり寒さを感じます。曇った風のある日などは、防寒具がどうしても必要なのです。東北地方とは違って、冬季には暖房設備(暖房用温水が太い循環パイプラインによって全戸に供給されています)がありませんから、それぞれの家は、各自暖房の工夫をしなければ成りません。それで、去年12月に入ってから、友人の車に乗せていただいて、電気店(日本チェーン店の"コジマ“や”ヤマダ”のような大型店)で電気温風ストーブを買いました。小型なのですが結構部屋の中を暖めてくれる”優れもの”です。
 そんな福州から、4時間半ほどのシンガポールの長女の所に、一昨日やって来ました。コートを脱ぎ、次にはセーター、シャツ、ズボン下と脱いでいったのですが、それでも汗が出るほどの暑さの世界にやって来たことになります。熱帯なのです。同じ大陸にある街なのに、その時間の差で、こんなに気候の違いがあることに驚かされるのですが、正直、体は喜んでいるのです。今が年間で一番涼しい時期なのだそうで、潮風が吹き抜けて一息つかせてもらっています。




 終戦で軍需工場が閉鎖された後、父は木材の会社を起こしたのですが、県有林の払い下げなどで知り合いになった、当時の県知事と懇意にしていていたようです。学校に上がる前に、私は肺炎に罹り、国立病院に入院したことがありました。この知事さんがお見舞してくれたことがあったのです。院長先生や事務方の人たちが、ぞろぞろとやって来たのを覚えています。この方が、知事を辞して、参議院選挙に打て出たときには、父がお手伝いをしていたことがありました。この知事さんが、戦時中、このシンガポールの市長をされていたことを父に聞いたのです。日本軍の支配下にあった国で、過去にはいろいろなことがあったことを歴史は伝えますが、かつてはジャングルと沼だったのだそうです。ところがイギリスの東インド会社が、ここに注目して、交易の中継拠点とするために買い取った島でした。英国領となったのが、1819年の2月のことでした。その後、英国の極東艦隊の基地となりますが、東南アジアに侵攻した日本軍によって占領されるのです。山下奉文軍司令官と英軍・パーシバル中将との会談において、英国軍は降伏し、シンガポールは日本軍によって1942年に陥落します。降伏後、この知事さんが市長として、行政を行ったわけです。シンガポールの日本軍による戦争被害も多大だったのですが、今、対日感情は良好のようです。華人たちの過去のいきさつに対する感情は複雑かも知れませんが、日本人を受け入れようとする努力には、中国本土のみなさん同様、驚かされるのです。




 そのような過去のある街、シンガポールで長女が働き始めて何年になるでしょうか、すっかり溶け込んで生活している様子を見て、安心させられます。中国の南にある「海南島」が、《中国のハワイ》と呼ばれるようですが、ここシンガポールも何となくハワイのたたずまいに似ているのを感じてなりません。とても過ごしやすさを感じます。私たち日本人は、どこでも自由に行き来することができ、どこでも活躍できる国なのですが、平和な関係が長く保たれることを願ってやみません。そんな思いに浸っている私の頬を、南国の潮風がなぜて、通り過ぎて行きます。間もなく、農暦(太陰暦)の「春節」を迎えるのですが、名物の《爆竹》も《花火》も、この国では、もう大分前からご法度なのだそうで、道路の上にイルミネーションで、春節・新年の祝いのモニュメントがあるのですが、そこに描かれている爆竹が炸裂していて、太鼓が叩かれて爆音の代わりをするだけなのだそうです。それで我慢するこの街の華人たちの南国にも、「春」が来ようとしています(1月8日記す)。

(写真は、「シンガポール・旅スケ)、「春節の《福》」、「春の花・桜」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。