2009年2月5日木曜日



 『こんな涼しい天気、シンガポールでは初めてだって!』と、シンガポールの巷の噂話を長女が伝えてくれました。この季節は、雨季で毎日雨降りなのだそうですが、私たちが参りました、1月6日から4週間ほどは、ほとんど雨のない日が続いていたのです。それでも、この一週間は、夕方にスコールのような熱帯特有の雨が、三日ほど降りましたが、それでも例年には比べられないそうです。おかげさまで、熱帯の蒸し暑から涼しく快適な時を過ごすことができたました。5年ほど前に、まだ日本に下りましたときに、一週間ほどの休暇を得まして、娘の問安のつもりで訪ねたことがありましたが、今回は、家内と二人の長期の滞在になったわけです。



 一昨日、娘が勤めから帰りましたら、『夕食が済んだら出かけよう!』と言って連れ出されたのです。ビサなしの滞在が、ここシンガポールでは「30日間」という決まりがあったのを知らなかった私たちは、32日の滞在で、二日間オーバーステイになっていたのです。それで、どうしても国外に、一たん出る必要がありまして、夜の8時過ぎになって、娘の会社の同僚の方の案内で、マレーシアに行くことになりました。マレー半島の突端にあります島が、シンガポールなのですが、半島全体はマレーシア(首都は「クアラルンプール」です)なのです。入国手続きのために首都まで行く必要は無く、国境に接した第二の都市であるジョホール・バルに行ったわけです。シンガポールとの間が海峡になっていたのを、埋め立てられていて、堤防の上に設けられた道路が両国を結んでいました。出国と入国の手続きを済ませて、そのジョホール・バルの中心街に入ってみたのです。折角の入国でしたので、『どこかでコーヒーでも飲みましょう!』との私の提案で、メイン道路から少し入ったところのレストランで、こちらの名物の「ホワイト・コーヒー」を注文したのです。この国で生産したコーヒー豆を炒って煎れたものですが、実に美味しかったのです。これまで、どこでも味わったことのない不思議な味がして、少々甘かったのですが、異国情緒とともに飲み心地は満点でした。メニューを見ていましたら、案内を買って出てくださった娘の同僚が、『これが美味しいです!』と勧めてくれた麺も注文して食べたのですが、これまた、とても美味でした。



 立春の月が、遠慮がちに、われわれを眺めていましたが、マレー人の街というよりは、漢字の看板が目立つ中国人の街でした。ここには、何と「ジャスコ」が何店もあるそうで、国境近くにもイオンの看板を掲げた大型店を見つけることができました。その出店の影響で、フランス資本のカルフールの客が、『ジャスコに流れてしまっている!』と言っていました。その昔、日本軍が、タイ領土からマレー半島を南下して、イギリスの領土であったシンガポール陥落作戦を開始したのです。「銀輪部隊」と呼ばれた自転車部隊が南下して、ここジョホール・バルに到着して、海峡を渡ってシンガポールに進入したのです。山下奉文が、その時のマレー作戦の司令官だったのです。先日、その上陸地にも連れて行ってもらいましたが、太平洋戦争時の爪痕は、長女の家のすぐ近くのチャイナタウンの中にも、マレーシアのジョホール・バルにも見つけることができて、父の時代の日本の様子を思い出させられた次第です。



 そういった過去を持つ街と人々の中で、長女が働くことができ、よき友人を得ていることは、実に感謝なことであります。昨晩は、そんな友人たちの一家族と弟さんが、私たちを食事に招いてくださって、よい時を持つことができました。その弟さんは、私が35年間働いた町で出会った青年なのです。娘がシンガポール行きが分かったときに、ご自分のお姉さんを紹介してくれたのです。雨上がりの昨晩のシンガポールは、雨降りの後でしっとりし、静かで、美味しくて、楽しい街でした。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。