2009年2月17日火曜日

李冰と信玄



 『武田信玄が、もう少し遅く生まれ、健康だったら、天下を取ってていただろう!』と言われる歴史家がおいでです。城を持たなかった信玄は、何よりも「人」を大切にした戦国武将でした。数年前に、四川省の「都江堰」を訪ねたことがあります。そこは、春の雪解け水で増水した岷江(ミン・ジアング)の防護堰であり、下流域の灌漑用水の取り入れ口でした。四川盆地を「天府之国」と言うのですが、この堰によってもたらされた豊穣の故だそうです。紀元前3世紀、洪水をくりかえす岷江の流れを緩め、また二分して下流域の農業振興のために、太守の「李冰(リ・ビング)」が、4年の歳月を費やして設けたものでした。

 この故事を、「史記」を読んで知った信玄が、御勅使川(みだいがわ/釜無川・富士川の支流)の洪水で苦しむ甲府盆地の農民のために、都江堰に倣って造ったのが「信玄堤」です。そのような経緯があって、山梨県と四川省とは姉妹関係を提携して、人材や産業文化の交流をしているのです。昨年の四川大地震の折には、山梨県下の中学校から義捐金が送られているニュースを聞きました。




 お金や物ではなく、「人」こそが、最重要されるべきなのでしょう、李冰や信玄のように、人を大切にしますと、富や収穫が、人望を伴って後からついてくるのではないでしょうか。信玄は、『人は石垣、人は城、人は堀、情けは味方、仇は敵なり!』ということばを残しております。う~ん、下克上の戦国の世に《情け》だったんですね、人として幸せなことは、「・・・情け深く、人には貸し、自分のことを公正に・・・・」生きることに違いありません。

(写真は、四川省の「都江堰」、釜無川の「信玄堤」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。