索道
山奥で鉱物(石英)の採掘事業をしていた父が、馬に乗っていたことに、前回触れましたが、採掘現場から集積工場までは、「索道(さくどう)」と言う、ケーブルカーが敷設されていたのです。山の中を数キロに渡っていましたから、当時としては難工事だったのでしょう。採掘された鉱物を、隣村の集積工場に運び、そこからトラックを使って街の駅に運んでいたのです。それを東京の工場で加工して、水晶発信子用や防弾ガラスの原料を製造し、軍用の計器や飛行機に用いていたそうです。平和な時代になって、その索道で、山奥から熊や鹿が運ばれて、索道 の油くさい車輪軸のそばに置かれていたのを覚えています。子どもの目には実に大きく見えました。
この索道に、兄たちは乗せてもらって、山奥の採掘現場に行ったことがあったようですが、おっちょこちょいの私と幼かった弟を、父は決して乗せてくれませんでした。ですから兄たちが羨ましくて仕方なかったのです。
索道の始発点に住んでいたのですが、その工場と家があったあたりを母と兄と弟で、30年ほど前に訪ねたことがありました。丈の高い夏草で覆われてコンクリートの台座だけが残っているだけで、谷の向こうから、架かっていた極太のワイヤーも、それを支えていた鉄骨の櫓も、みな撤去されていたのです。終戦とともに、山も村も会社も、そして私たち家族も、大きく変化したことになります。
沢違いの部落に、弟と私の生まれた家屋が残っていました。苔むすと言うのでしょうか、まったく老朽化していましたが、『ここから始まったんだ!』と思いますと、実に感慨深いものがありました。
(写真は、長野県飯田市のHPの「索道」、兄たちが乗っていたのとまったく同じものです)
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