2009年2月12日木曜日

まるで詩のような演説を



 1931年10月、国際連盟の全権大使だった松岡洋右が、ジュネーブの連盟本部で演説をしたとき、聞く人を感動させ、議場に万雷の拍手が響き渡ったのだそうです。父親の事業が倒産した13歳の松岡は、アメリカに渡り、さまざまな仕事をしながらオレゴン大学を卒業した、「苦学の人」でした。不撓不屈(ふとうふくつ)、励んだ甲斐あって、その英語力は抜群のものがあったのです。平和な時代に生まれていたら、新渡戸稲造のように、国際社会を舞台に活躍できた人なのかも知れません。日独伊三国同盟などに奔走し、外務大臣などを歴任したのですが、戦争責任を問われた東京裁判の公判中に病気を得て亡くなっています。

 私たちは、どのような時代に生まれるかを選び取ることができずに、生を受けるわけですが、松岡と同じ学校で学んだ後輩の私の子どもたちは、松岡のような、何世代も前の先輩の存在を知らないのだろうと思うのです。そのような《時代の人》松岡が、『三国同盟は僕の一生の不覚だった。三国同盟はアメリカの参戦防止によって世界戦争の再起を予防し、世界の平和を回復し、国家を泰山の安きにおくことを目的としたのだが、事ことごとく志と違い、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと、死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない。』と、日米開戦の報道を耳にしたとき、病床で涙を流しながら語ったと言われてます。満州鉄道総裁のときには、5000人のユダヤ難民を保護したこともある人でした。「私たちは、平和に役立つこと・・・」のために、生を受けた時代を生きて行きたいものです。

(写真は、オレゴン州ユージンにある「オレゴン大学」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。