望郷の思い
「百人一首」の中で、紀貫之が、「故郷(ふるさと」)」について次のように詠んでいます。『人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞむかしの 香ににほいける 』とです。その意味は、『人は、どうかは知らない。でも、懐かしいふるさとの花(梅でしょうか)だけは、昔のままの芳しい香りを放って咲きほこっている!』なのでしょうか 。
私にも故郷があります。兄や弟と駆け巡った山野がありましたし、ハヤや山女を流れの中に見つけた小川もあったのです。一生懸命に働いてくれる父がいて、家事一切をして子育てにいそしむ母が元気でおりました。中部山岳地帯の富士川に注いでいる沢を登った、熊やサルや鹿の出没する山村で生を受けた私は、兄たちの後をついて山道を追っていました。私が小学校に上がった夏に、4人の息子たちの将来や教育を考えた父は、東京に出ることを決めたのです。まだ武蔵野の風情の残った中央線の多摩地区に、父は家を買いました。そこは、まだまだ農村と言った感じがしておりましたから、級友たちの多くは農家の子だったと思います。
故郷は、生まれた土地なのでしょうか、育った土地なのでしょうか。きれいな小川があって、蝉の鳴く夏があって、野の花の咲く土のにおいがして、思い出の中に鮮明に刻まれる土地、厳格(こわ)い父は逝き、笑顔の母は老いて、国外に住む私は、はるかに故国に思いを向けております。二親とも活き活きとしていた時代の団欒、そここそが「ふるさと」なのかも知れません。懐かしい光景と匂いの中に人がいて、郷愁(おも)う「ふるさと」があるのでしょう。
それでもなぜか、自分の中に、《本物の故郷》を憧れるような望郷の思いがあって、しきりに呼び寄せられているように思えてならないのですが。
(写真は、《松雄博雄の社長研究室HP》の「大空」、《おたる水族館HP》の「やまめ」です)
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