2007年5月4日金曜日

一切れの乾いたパン


 「一切れの乾いたパンがあって愛し合うのは、ご馳走と争いの満ちた家に勝る」と、私の父の日記帳に記されてあります。これは、私の家庭建設のための指針のことばでもありました。 

 私の父も母も、恵まれた家庭環境の中で育ちませんでした。「時代の子」だったのでしょうか。かつて私たちの国には、「足入れ婚」と言う風習があったのですが、いわば「試験結婚」と言ったらよいかも知れません。嫁ぎ先で、舅や姑や祖父母と一緒に生活をしてみて、彼らのテストに合格しなければ認めてもらえない、封建的な家中心の考えがあったのでしょう。それで、『家の格に合わない!』と言う理由で、父を残して生母が出されてしまいます。その家に、正妻が迎えられるのですが、その方に男の子が生まれます。父は嫡男ではなく「庶子」で、母違いの弟が家督相続権を継ぐことになるわけです。 

 疎んぜられた父と、喜ばれ期待され叔父との関係の構図が、旧海軍の軍港を見下ろす、海軍一家にはあったのです。旧制の県立中学校に入学するのですが、途中で、親戚のいる東京の私立校に転校してしまいます。何か難しい問題があったのでしょう、十代の前半にあった父は、親元を離れることになったわけです。旧制の中学校に進学させてもらったのですから、経済的には恵まれていたのでしょう。 

 ところが、父の弁によりますと、『俺の弁当は、弟や妹たちとは桁違いだった。おかずがほとんど入っていなかった!』と、結婚してから、私の母に愚痴を言ったことがあるのだそうです。それだけ母に心を開いていたからでしょうか。叔父は、南方で戦死し、名門家庭の期待に沿うことが出来なかったのです。   

 愚痴を聞かされた母も、婚外子として生まれ、生後間もなく養女に出されてしまいます。養父母には愛されて育つのですが、自分の生まれを母に告げる者がいて、まさに思春期の只中で、それを知るのです。18になった時、生母の嫁ぎ先の奈良に会いに行くのですが、『帰って欲しいの!』と言われて、泣く泣く帰ったのだそうです。負けず嫌いの母が、それでもチラッと見せる《かげり》の理由が、この辺にあるのだと分かったのです。 

 そんな両親に、男の子が4人与えられたのです。家庭の暖かさを知らない両親でしたが、実によく、私たちを育て上げてくれたのです。今日日、養育責任放棄の親のことが話題になりますが、私の父と母は、自分が受けないものを与えてくれたのです。父は会社帰りに、ケーキやあんみつセットやソフトクリームやカツサンドを、東京から持ち帰ってくれたのです。あの味こそが、非行の抑止力だったのではないかと思うのです。『父に愛されているのだ!』と言う、何ともいえない確信が、胃袋で感知できたからでした。母は料理が上手でした。ハンバーグなど、まだ流行らない時期に、わざわざ挽いてもらった牛肉で手作りを、よく造ってくれたのです。母は胃袋だけに訴えたのではなく、4人のために、叫びながら育ててくれたのです。 

 父は、自分の継母の葬儀に私を連れて行きました。『○○さんは、料理が上手だった。よく西洋料理を作って食べさせてくれたんだ!』と継母を自慢していました。だから弁当の件は、少年期の父のひがみだったかも知れませんね。そう言って赦したのは、父が召される数週間前だったのです。 

 もう1つ、小説のような物語があるのです。母の生母が亡くなった時、その枕の下から、一葉の写真が出てきたのだそうです。小・中・高・大の4人の息子の記念にと、父が街の写真屋で撮ってくれたものでした。どのように祖母の手に入ったのか分かりませんが、出しては眺め、出しては眺めたのでしょうか。自分が産んだ子たちを、孫と認知してくれたことを知った母は、どんなにか慰められたことでしょうか。すごい! 

 私と家内は、三男と三女で、それなりに育てられて、「わが道を行く」を生きて来て、4人の子の親をさせていただき、孫も抱くことが出来ました。彼らが富まなくても、持たなくてもいいから、「一切れの乾いたパン」を食べて、穏やかに、愛し赦し合いながら生きて行って欲しいと願う、初夏の陽気の五月であります。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。