2007年5月4日金曜日

野球小僧への惜別のことば


  2006年2月9日死去した藤田元司元巨人軍監督への弔辞

           ▽川上哲治・元読売巨人軍監督の弔辞

 藤田君……。「今までよく頑張ってくれたね。きみは自分のことは忘れて、いつも人のことばかりに気をつかって、本当に大変だったね。ごくろうさん。いまはもう楽になったことだろう。ありがとう。長いあいだ、本当にありがとう」  

 きみが亡くなった翌日の朝、用賀の自宅をたずねると、きみは応接間に眠るように静かに横になっていた。訃報をきいてから、気持ちが乱れてどうしようもなかったが、きみにこう話しかけたら、心が少し静まった。 

 去年の十一月二日、正力賞の選考会で会ったとき、杖をついていたので、「大丈夫か」と声をかけると、「大丈夫ですよ。おやじさんこそ気をつけてくださいよ」と逆に気づかってくれた。何年か前から透析をする体になって、入院することも何度かあったが、この日は会議のあとの食事もちゃんととっていたのですっかり安心していた。翌月に入院していたことは知らなかった。まさか、あの日が最後の日になるとは……。思いもしなかった。  

 このショックは、今日になってもまだおさまらない。この何十年のあいだ、公私にわたり、一緒に過ごしてきた、あまりにも多くの思い出が、次から次と甦ってきて尽きることがない。 

 選手のころ、水原監督から「藤田頼む」と言われたら、肩が少々重くても、また、完投した翌日でも、チームの勝利のために、「行きましょう」ときみは黙って投げ続けた。投手生命を縮めてしまったが、愚痴ひとつ聞いたことはなかった。 

 V9時代、すぐにピッチャーを代えたがる僕に、コーチのきみは「まだ大丈夫です」と投手をかばい、僕のズボンのベルトを握り締めて、マウンドへ行かせなかった。鬼のような顔つきのきみを忘れられない。 また、宮田投手の個性を活かすため、リリーフにつかい「八時半の男」に仕上げて、プロ野球でのリリーフ専門投手の基礎を築いた。それもきみの功績だ。  

 そして長嶋くんの後を受けて、大逆風のなかで監督になると、みごと日本一となって巨人軍の大ピンチを救ってくれた。戦力もどん底、火中の栗を拾う損な役回りはきみにしかできないことだった。さらに王監督の後のチームのピンチのときも、再建をひきうけた。長嶋監督のときと同じで、人気監督のあとは、誰が見ても腰のひける損な役割だった。だが、このときも、「友達がちょっと疲れたので、その代わりを務めるだけです」と逆に王くんを気づかう爽やかなコメントをしていた。  

 きみには以前から心臓の持病があった。このころは腎臓も悪くなっていて、医者から「今度監督をやったら命を縮めますよ」と言われている、と聞いていた。「でもね、おやじさん、あのおじいさんの務台さんから、『藤田くん頼む。きみしかいないんだ』と言われたら、断れませんでした」ときみは笑って言っていた。 自分を捨て、務台光雄会長の心にこたえた。愛する巨人軍へ笑って命を差し出す男気。この男は、いつでも死ねる、勇気のある本物の日本男子だ、と改めて感じたことを覚えている。  
 
 話は変わるけど、みんなで仲良く、よく遊んだよね。釣りにゴルフ。釣りでは武宮くんや、牧野くん、グラウンドキーパーの務台さんたちと……。釣りは君が先輩で、糸の結び方やリールの扱い方まで、何も知らない僕に親切に教えてくれたね。いつだったか、伊豆のみこもと島で、石鯛を二十数匹釣って、船宿で褒められたことがあったよね。あのときは、楽しかったなあ……。 

 ゴルフでは僕のほうが先輩で、牧野くんや僕と回ると、きみはいつもカモだった。飛ぶのは無茶苦茶に飛ぶが、ときどきOBも打ってくれるので、可愛かった。しかしきみはいつも淡々として、「どうせ遊びのゴルフ。みんなと楽しく過ごせればよし」とする持ち前のおおらかさで、誰からも愛され慕われていたね。  
 
 しかし、そういうきみは、いまはもういないのだ。どんなに辛く悲しくとも、その現実を受け入れるしかない。  

 いつだったか、きみが大好きだ、という言葉を聞いたことがある。「あたりまえのことを、あたりまえにすれば、あたりまえのことが、あたりまえにできる」 慶応高校野球部長、故、長尾先生から教わった、ときみは言っていた。若いころから、球界の紳士、と呼ばれていた、いかにもきみらしい人生観だった。いつかそれを褒めたら、「いやいや、学生のころは喧嘩っ早くて、不良だったんですよ」と言っていたのを思い出す。「紳士たれ」という言葉こそ、かつて正力松太郎さんが巨人軍の指針として示された言葉だ。紳士とはやせ我慢ができて、人に手柄を譲れること。そして誰にでも愛情をもって接することができること。きみはその全部を持っていた。  

 言うまでもないが、きみは優しい夫で良き父親。あたたかく素晴らしい家庭を築いていた。本当にきみは情にあつく優しい人だった。しかしそれだけではなかった、と僕は思う。きみほど厳しさに徹底した男は少ない。 愛情とは、ただ仲良く、甘く優しくすることではない。厳しく相手と向き合ったうえで、人を活かすことだ。どんな人間にもその人なりに素晴らしい持ち味がある。失敗を受け入れ、弱さを認めてチャンスを与え、力を引き出してやる。それがきみが命を削ってまでも、後輩たちに伝えたかったことだ、と僕は思っている。  

 そういうきみだから、運にも恵まれた。ドラフトで、原くんを引き当てた。教え、育てて、いまやきみの立派な後継者となって、今年の巨人軍を率いてくれている。心配はいらない。かならず大きな花を咲かせてくれるに違いない。  

 いろいろ言ってきたが、今頃は先に行った仲良しの牧野くんと再会しているかもしれないな。約束を破って、僕より先にいってしまったが、もうすぐ僕もいくだろう。そうしたら、そちらでまた楽しくやりましょう。  

 今日は辛くて寂しい。悲しいけれど、涙を見せずにきみを送ることにする。どんなに辛いときでも、笑顔を忘れなかったきみへの、それが一番の供養だと思うからだ。 

 ありがとう。ありがとう。本当にありがとう……。
 
 藤田くん、さようなら。               平成十八年二月十五日川上哲治


○ 藤田元司氏(1931年8月7日 - 2006年2月9日)は、愛媛県新居浜市で生まれる。慶応大学出身。昭和32年,26歳で巨人に入団し,その年17勝をあげて新人王を獲得。33,34年には2年連続でセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。8年間投手として活躍し,リーグ優勝5回,日本一2回に貢献。また,昭和56年からは計7年間巨人の監督を務め,リーグ優勝4回,日本一2回。
○ 写真上は、藤田元司投手の投球フォーム(スポーツ報知より)、写真下は、監督時代の物(ジャイアンツ所蔵)

0 件のコメント:

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。