力道山
力道山と言う名のプロレスラーがいました。相撲上がりの彼が、たちまち日本の大人気者になったのです。それは、大男の白人系外国人選手との対戦で、見事に勝ってしまうからです。戦争に負けて、敗戦国の惨めな戦後を生きてきたには、溜飲の下がる思いだったのです。テレビの放映が始まって間もない頃の話なのですから、テレビ普及の大貢献者だった事になります。街の銭湯の帰りに、燃料屋の庭先のござの上に座って見せて貰った覚えがあります。もともと「弱い者いじめ」を嫌う気風が日本人の心の中にあったのではないでしょうか、小男が大男を倒すとか、「弱い者いじめ」に天罰を下すと言う物語を、日本人は好んできたのですから、力道山を拍手喝さいで応援したわけです。
当時、柔道界に無敵の常勝選手がいました。熊本出身の木村正彦で、日本選手権で4連覇の猛者でした。柔道をやめた彼はハワイに渡って、プロレス選手として活躍していたのです。この木村と力道山とが、リングの上で対決して、「プロレス日本一」を決めようとの話が持ち上がり、雌雄を決する試合が行われることになったのです。1954年の事でした。どうも二人の間では、引き分けや交互に勝ち負けをして、興業を長引かせて行こうとの密約があったようです。ところが、禁じ手を使った木村に怒った力道山が、張り手を使って散々な流血試合になって、『勝負あった!』で終わります。結局、木村は故郷に帰り、力道山がプロレスの興業を続けて行ったというのが、通説のようです。
そう言った経緯から、プロレスとか大相撲と言った、お金のかかった職業人同士の勝負には、「八百長」がつき物で、我々は、これを「ショウ(見世物)」として見ていたのです。もちろん強い選手が出てきて、チャンピオンになったり、横綱を張ったりしていたのですが、所詮は「興業」でした。相撲では、八番勝ちますと給金を直すと言って、現状維持か、数段の番付の昇格が約束されるので、八番勝った者と、八番勝ちたい相撲取りとの間には、裏取引が暗黙のうちにある、これも定説でした。
それなのに、大相撲を「国技」だと言うのには、合点が行かないないのですが。楽しみの少なかった戦後の時期には、全国民が大変興奮して観ていましたが、いまや人気にかげりが見え、斜陽化してしまっているようです。外国人選手が幅をきかせるいる相撲界は、衰退の一途をたどっているようですが、使命は十分に果たしてきたのではないでしょうか。
それにしても琴ヶ浜の内掛けは小気味がよかったし、栃錦の盛り上がった両肩の筋肉には驚かされたものです。「朝、何がし」とか言う相撲取りなどが及びもつかないほどの相撲に、欣喜雀躍した、少年の日の懐かしい思い出が鮮明であります。ああ言った、少年の心を奮い立たせるようなスポーツがなくなってしまったのか、スポーツが多様化してきたのか、今日日のスポーツ界が、今ひとつ盛り上がらないのは、お金が絡んで、純粋さが失せてしまうからなのでしょうか。
私の父の日記帳の中には、「お金」が罠であることについて触れた箇所があるのですが。
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