「子どもの日」
今日は、「子どもの日」、昔の「端午の節句」です。出雲の祖母から「ちまき」が、毎年この時期に送られてきました。母がふかしてくれた時、笹の葉のにおいが家中に立ち込め、食べた時、母の故郷を感じました。孫たちの成長を願って励ましてくれる祖母が、遠くにいてくれることを意識させられたのです。
私の父の日記帳には、「子どもたちは・・賜物・・報酬」と書き残されてあります。ところが、今朝の「毎日新聞」の余禄欄に、次のようにありました。
『・・だが、昔の話ではない、今この地球上にはそんな親の保護から引き離され、実際の戦場で戦わされている子供がいる▲新たに子供向けビジュアル版の出た「世界を見る目が変わる50の事実」(草思社)は「世界の紛争地帯で戦う子ども兵は30万人」と見積もっている。33カ国の政府軍とゲリラで子供が兵士として使われ、戦闘はもちろん、地雷原を歩かされたり、自爆兵として訓練されたりしているのだ▲6年の戦闘経験をもつ15歳の兵士は自分が犯した残虐行為を思い出しては夜眠れないと訴え、「一番つらいのは将来を考える時」と語る。子供兵士の数だけ地上から希望が消えていく。それを呼び戻すのは世界中の大人の責任だ。』とです。
この記事を読んでいた時、窓の下から子どもはしゃぐ黄色い声が聞こえてきました。一人っ子たちの無邪気な呼び声です。ところが、世界の現実は、全く違った子どもたちの姿を伝えているのです。耐えられないほどの悲しい思いがこみ上げてきます。大人の始めた紛争や戦争に、多くの子どもたちが駆り出されて、異常体験を積み上げているのです。何時かテレビの映像の中に、大人の目をした子どもを見たときに、心が震えたことがあります。
貧困、飢餓、紛争は、子どもたちから夢や意欲や家庭を奪ってしまっています。大人の異常な欲望が、幼い性を商品化しています。いつでしたか、ある授業で、『北上川の蛇行した岸辺に、いくつもの地蔵があるのです。そこは貧困のゆえに、育てることが出来ずに、間引きされた幼い命が打ち上げられている箇所なのです。』と言う話を聞きました。
自分は、戦火や欠乏の中を潜り抜けて、父母の愛を受けて生き延び、高等教育を受けられたのですが、同じ世代に、陽の目を見ることなく処分されてしまったいのちのあることを知って、改めて生きる意味、生かされている目的を深く考えさせられたのです。
子どもたちが、屈託無く、胸を膨らませて明日に夢をつないで、天真爛漫に生きて行くことの出来る世界であることを、切に願うこの日であります。命の付与者からの「賜物」であり、「報酬」としての尊い命なのですから。
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