2008年12月29日月曜日

『♯・・・もういくつ寝ると・・・♭』



 『もういくつ寝るとお正月、お正月には・・・』と、この時期に歌った記憶があります。今のように時の移ろいが早くなく、めまぐるしい社会の変化もなく、牛歩のように世間が動いていた時代だったのかも知れません。都内に通勤していた父が、暮れから正月にかけて、一日中家にいて、暮の掃除や正月の準備に余念なかったのが、強く印象に残っています。「父親不在」が物理的だけではなく、精神的に言われるようになって久しいのですが、明治生まれの父は、海軍の軍人の祖父に躾られたのでしょうか、律儀な古い日本人を持って生きていたのが感じられて、やはり「大黒柱」的存在だったのです。そんな父が、一日中そばにいてくれるのは、男の子の自分として、とてもうれしかったのを思い出すのです。




 正月用の餅を、我が家でついたことはなかったのですが、父は近所の米屋さんに餅つきを頼んでいました。餅が届くと、ちょうどよい硬さになるまで待ってから、父はおもむろに、竹製の物差しを当てて、実に正確に同じ形に切り分けていました。それは几帳面な父の一面だったのです。何時からだったでしょうか、この餅切りが私の当番になりました。檜で作られた餅箱の中に入れるためには、父がしていたようにしなければなりませんでしたが、父の真似はとうとう出来ませんでした。『雅、いくつ食う?徹は?謙次は?萬は・・・・?』と聞いては、元旦の朝に、七輪の網の上で父の焼いてくれた餅を、母が鶏肉と小松菜の醤油仕立ての関東風に味付けた汁で煮た、さっぱりした「お雑煮」を作ってくれました。




 それから、『凧(たこ)上げて、独楽(独楽)を廻し・・・・』たりしたのです。今日日、積雪が少なくなってきている多摩地区ですが、私たちの子どものころは、よく降りよく積もったのです。雪が降り始めると兄たちが、みかん箱と竹で橇(そり)を作って、坂道に出しては滑らせてくれました。駅のそばに「大正寺山」と呼ばれていた多摩丘陵の一角がありましたが、そこには滑降するのに格好なポイントがあって、そこでも滑ったのです。テレビもなくゲームもなく、お金もない時代でしたが、「創意」と「工夫」はふんだんにあったのではないでしょうか。そういえば、闽江の川辺で凧あげがされていたのを見たことがあります。正月ではなかったのですが。でも、竹で作った、尻っぽをつけた《大和凧》の風情は、日本そのものであり、幼いころのものでありました。




 さて、ここ中国で三度目の暮れを過ごしているのですが、夕べも一昨日の晩も、何と「蚊」が飛んでいました。そして一昨日は私が、夕べは家内が刺されてしまったのです。信じられないことであります。年の瀬、師走も押し迫ったこの時期の蚊の襲来には驚かされてしまいました。もう1つの驚きは、「金木犀」の花がまだ咲いているのです。盛りのころの様な香りはないのですが、花に鼻を寄せますと、ほのかな香りがしてくるではありません。亜熱帯気候は、幼い日の暮情緒とはかなりの違いがあるようです。




 先週、街中の日本企業マンのご夫人の家で、「餅つき会」があって、家内が出かけて行きました。電気餅つき機でついたものを持ち帰って来ました。九州・日田の出身だそうで、関東のように四角に切ったものではなく、丸型の餅でした。醤油をつけて食べましたら、既製の真空パック物とは違って、舌触りが子どもの頃に父の切ってくれた餅にそっくりでした。それを口にしながら目をつむると、幼い日の父のいた光景が浮かび、匂いが漂ってくるように漢字られたのです。昨日も、若い友人の母君と、彼の元軍人のおじいさんおばあさんにお招きを頂き、沢山のご馳走で歓待されました。「全家福(チュエン・ジャア・フウ)」と言う中国湖北地方の料理(沢山の祝福の食材の入ったスープ風の料理)もご馳走になり、胃で受け止めた「福」、「幸福」が我が家に訪れるように思わされたのです。そのご好意に、私たちの心と人生にも、平安や繁栄がやって来て、その平安や幸せが、あふれ出て友人たちや近隣を、いっぱいに満たすことを願わされました。そんな満ち足りて静かな大陸の暮を、つつがなく過ごさせていただいております。感謝の一年でした。

(写真は、「酒井三良『雪に埋もれつつ正月はゆく』」、「焼き餅/写真素材シアター」、「春日部市の凧揚げ大会」、「金木犀」、「『全家福』の飾り物」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。