2008年7月17日木曜日

『私は百まで生きるつもりで、今を生きています!』


 福建省の省都・福州の街は東西に流れる「闽江(ミン・ジアング)」によって、南北に二分されています。北部は、この川と山岳部との間に広がった旧市街があり、その中心に往時、時を報せた「鼓楼(グウ・ロウ)」があります。南部は、闽江の流れが二に分かれた中州に位置していて、私たちが住んでいる「仓(倉)山区(ツァンシャン)」があります。かつて、ここにはアメリカのミッションが建てた協和学院」があって、中華人民共和国の建国後その敷地と校舎を使って、福建師範大学が開学しています。このあたりは学園区といえるでしょうか、数多くの学校があって、この地域の一番繁華な地域は「学生街」です。週末にもなりますと、原宿や新宿や渋谷のような人通りがあって、学生たちであふれています。

 昨年7月、その学園区にある福建師範大学海外教育学院の宿舎に移り住んで1年が過ぎました。そこはホテルのツインルームで、厨房がありませんので、浴室と洗面所をかねた一室に、炊飯器や電気調理器を持ち込んで、手狭なところで自炊をしてまいりました。結構使いようで、まあまあの1年を過ごすことができたのです。契約が1年ということで、他の住宅を探していましたら、親しい友人の同僚の持ち家を貸してくださるということで、改装をしていただき、先週末入居することができました。この家は、大学の教員住宅棟の一室で、厨房と浴室と三間の3Kの間取りになっています。一階ですから、小さな庭まで付いております。太陽が入り込み、風も窓から窓へと吹き抜け、緑の木々もあふれるほどにあり、住環境としては静で落ち着いて快適なのが何よりです。

 その庭の片隅に1メートル立方ほどのレンガで囲われた花壇(!?)があります。ゴミなども捨てられてありますから、花壇と呼べるかどうかは疑問ですが。そのゴミの間から、一本の植物が立ち上がって、越した翌日の朝、綺麗な花を咲かせていました。どうも私たちの転居を歓迎してくれた開花に違いありません。何というな名の花かは分かりませんが、清楚で穏やかな感じがして大変慰められたのです。亜熱帯気候のただ中にあって、真紅やまっ黄色をした花々が咲き誇る中で、それは淡いピンクでした。

 昨秋、中華人民共和国の建国記念の晩餐会を、省政府が主催されたとき、招かれて列席させていただきました。そのとき、同じ学校の英文科を卒業され、4年ほど後輩の方と出会いました。話をしていましたら、共通の話題が出てきたこともあって、雰囲気にも似通ったところがあり、『○学の出身ですか?」と聞き合って、互いに『やはり!』と意気投合をしたのです。それ以来、お交わりをさせていただいたのですが、この方は2年間の「日本語教師」の奉仕を終えられ、先週の初めに日本に帰って行かれました。

 その彼が、「置き土産」のように、2度ほど散歩に誘ってくれました。この転居先の周辺です。暮れなずむ灯ともし頃、常々散歩をされて見つけられた公園や伝統ある大学やガジュマルの巨木などを案内してくださったのです。「胡同」という路地裏を通り抜けると、ガジュマロの古木が聳え立っていました。数百年(!?)の長きに亘って、この町を見下ろしてきたのでしょうか、逞しく枝葉と根を張り伸ばし、ヒゲか根のような物を枝から振り下げており、南国情緒を醸し出しておりました。晩年に出会った同窓生が、『私は百まで生きるつもりで、今を生きています!』と言われたことが、私への挑戦となって、『もう1520年は生きたいのです!』と言い続けてきた私に、『百まで生きるぞ!』と考え直させてくれた友人です。宗旨は違うのですが、この町に建てられた「協和学院」と同系の学び舎で過ごした、彼との共通点が、なぜか親密さを感じさせてくれたのです。その古武士然とした痩躯の彼に、『ご苦労様!』とメールをした今日であります。セミの声がにぎやかで、どうも今日も猛暑の一日に間違いなさそうです。

(写真は、百年の歴史を持つ「協和学院」の校舎、今も「海外教育医学院」として使用されています)

0 件のコメント:

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。