2008年7月9日水曜日


 この五月の初めに、弟からメールがありました。『この時期に、よくお袋が菖蒲湯を沸かしてくれたよね!』と言ってきたのです。父の家は、年中行事を守る家庭ではなかったのですが、「端午の節句」だけは例外でした。4月の終わりから5月の初めになると、母のふるさとの山陰・出雲から、祖母の手作りの「粽(ちまき)」が、男の子4人の我が家に決まって送られて来たのです。笹の葉で巻かれ、食べることができるように篠竹がさしてあったと思います。蒸かし器で母が蒸かしてくれたのを、『アチッチ!』と言いながら食べた記憶があります。こんなことを書き始めますと、どこからとなく笹の葉のにおいが家中に満ちていたあの頃の様子が蘇ってくるようです。父が買ってきた「こいのぼり」も、この時期にあげられていたと思います。兄が、われわれ弟たちの背丈を柱に記してくれました。

 ですから「端午の節句」は、「粽」と「菖蒲の風呂」と「こいのぼり」があって、学校が休みだったこともあって、とてもうれしかった記憶があるのです。ところが昨年、天津 で学んでいたときに、老師が、スーパーや商店で売っている中国製の「粽」の起源について話をしてくれました。

 紀元前、楚(そ)の国に、「屈原(くつげん)」という政治家がいました(前340頃~前278頃)。国王の家臣で、正義感と愛国心に富んでいて、王の信任を得、民衆からの人望も篤かったのです。ところは、陰謀によって失脚した屈原は、国を負われる身となります。都落ちをする間に、「汨羅(べきら)」という川(現在の湖南省の省都・長砂の南を流れる川)にやって来たとき、その流れに身を投げて自死してしまったのです。弟を亡くして悲しんだ姉が、お米を入れた竹筒を川に流したのだそうです。その後、「憂国の士」であった彼を慕う楚の人々は、彼の命日(旧暦の5月5日)になると、小舟で川に入り,太鼓を打ち鳴らして、その音で魚をおどかし,「粽」を投げ入れて,「屈原」の死体を魚が食べることのないように願う行なわれるようになったのです。その行事が、奈良時代に、日本にも伝えられます。中国で行われている「ドラゴンレース(龍舟比賽)」も、屈原を慕う民衆の思いから生まれた川の行事として残されているようです。

 子どもたちの成長を願う親たちは、どの国も同じで、はやり病から子どもたちが守られ、無害であるようにとの願いが込められて、この時期に「端午の節句」が守られてきたのです。日本でも、「粽」を子どもたちに供して食べる風習が定着してきたようです。「こいのぼり」や「武者人形」などは、太平の世・江戸時代になってからのことだと言われています。

 ちょっと物悲しい「屈原」のお話ですが、それを知ってか知らないでか、私たちの祖母は毎年、「端午の節句」に、「粽」を送ってくれ、健康で活発に成長することを願ってくれたのですね。「粽」には、薬効はないのかも知れませんが、おばあちゃんの優しい願いや祈りがこめられていたわけです。食べた私たちは、あの単純な伝統菓子と、祖母や両親の願いに育まれれたことになります。子の世代を思う大人たちの願いは、いつの時代も変わらないものがあることになります。

 この5月には、次女の長男が3歳、長男の長男が2歳になりました。大陸のババは、「粽」を作って送ることができないでいますが、彼らの無事と成長を心から願っている「祈りのババ」であります。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。