2008年7月27日日曜日

花火師

 

 今年の2月、関西空港発福州行きの深セン航空の定期便に乗って中国に戻りました。長楽市の国際飛行場が間近かになった頃には、もう夜の帳が下りていましたが、眼下に花火が小さく昇って来るのを眼にしたのです。春節明けを祝って打ち上げられたものでした。

 中国に来て気づいた1つのことは、中国のみなさんが「花火好き」だと言うことです。火薬は、すでに唐の時代に中国で発明されていたのですから、当然のことでしょうか。結婚式や葬儀のおりなど、日常の慶弔時に、この花火は欠かせないようです。先日も、住所変更手続きで公安警察に行く途中、道筋に明るい色彩の花輪が並んでいたのです。そうしましたら葬儀の隊列に出くわしたのです。トランペットがあり、シンバルンもあり、悲しい雰囲気を吹き飛ばすかのようでした。みなさんは、日本のような黒尽くめではなく、普段着に真っ赤な帯を締めて帰って来られ、葬送の後のあの暗い悲しみが見られませんでした(埋葬に行かれるときには白の帯を締めるのだそうです)。

 遺影を見ましたら、まだ若い働き盛りの男性でした。もちろんご遺族の悲嘆は測り知れないものがおありと思うのですが。このときは花火はなく、真っ赤な爆竹が火花と赤い包み紙を放ちながら、爆音とともに炸裂していました。これもまた、死霊を追い払うのでしょうか、悲しみを追いやるのでしょうか、日本では見られない光景でした。きっと、その夜にで花火も打ち上げられたことでしょう。

 私は、尾崎士郎の「人生劇場・残侠篇」を読んだとき、任侠の世界から足を洗った吉良常が、中国大陸の上海で花火を上げる「花火師」になったくだりを読んだのです。高校2年でしたから16歳ほどだったでしょうか。ヤクザには憧れませんでしたが、その吉良常の「花火師」に憧れてしまったのです。日本人も夏には、花火を景気よく上げて暑気払いをする風習がありますが、子どものころから幾度となく多摩川の花火を観てきました。『いつか世界に出て行って、日本の繊細な仕掛けの綺麗な花火を大空に打ち上げたてみたい!』と思ったわけです。気が多くておっちょこちょいの私でしたから、本気でそう考え始めたのですが、結局、志を遂げることがなく、近くのおもちゃ屋で買ってきた線香花火を、丸くなって、うつむきながら小さな火花を楽しむだけの、四人の子どもたちの普通のお父さんで終わってしまいました。


 

 あの小説の中で、花火師・吉良常が、花火の事故で片腕をなくす場面が描かれていました。命知らずの私は、そんなに危険な職業選択を恐れなかったのです。男が命をかけるには申し分ない仕事ですし、潔い仕事人なのだと思わされていたからです。まあ、さまざまな夢を見ては、その実現に敗れて、今日を迎えたのですが、夢に見なかったような人生の展開に身をゆだねて、「四馬路」と言う繁華街で有名な上海から南に、数百キロの「福州」にいるわが身の不思議さを、改めて見つめ直している真夏であります。

(写真は、「線香花火」〒444-0834 愛知県岡崎市柱町字上荒子25番地1  (株)太田煙火製造所のHPから、「諏訪湖花火」は、大会のHPからです)

0 件のコメント:

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。