2008年9月15日月曜日

南信の「蕎麦がき」恋し


 中央本線に乗って、上諏訪で降りますと、抜けるような初秋の空がありました。空気も澄んで美味しく、山も野原も川も、『実にきれいだ!』と思わされたのです。バスに揺られて高原を行きますと、『日本ってなんて美しい国なんだろう!』と、まだ十代の私は感じること仕切りでした。そうして信州が大好きになった私は、結婚しても、妻や子どもたちを連れては、いくどとなく訪ねたものです。

 いつでしたか、その諏訪湖側からでない、佐久から車で、白樺湖に行ったことがありました。家内と二人、週日のことでしたから、ほとんど観光客がなく、車の行き来も少なかったのです。お土産屋に寄って品定めをしていても、実にのんびりしていました。店主のご夫人が、『どうぞ!』とお茶を入れてくれて、漬物も勧めてくれたのです。紅葉の秋でした。そんな一時をともにして世間話をしたのです。土日の週末では、そのような寛いだときは持てないに違いありません。のたりのたりと動く時を楽しませてもらいました

 それから何年もして、次女が結婚した夫の仕事場が、南信・飯田市の近くの町の高校でした。英語の補教師として赴任したのです。時間を作っては、何度、彼らの家を訪ねたことでしょうか。その教員住宅と言うのが、水洗ではなかったのです。強烈な臭気のする家に、2年ほど彼らは住んでいました。婿殿は、アメリカ北西部の出身でしたが、日本の旧式のトイレに我慢して、一言も不平を言いませんでした。私の母と一緒に訪ねたときに、近くの旅館に泊まったことがありました。彼らと一緒に食事をしましたら、鯵の干物、味噌汁が膳の上にありました。それを、『美味しい!』と言って、一緒に食べてくれたのです。そういった文化の違いを超えて、順応して生きていこうとする彼の生き方に、『えらいなあ!』と思わされ、彼への感謝と評価とが、なおさら大きくなったのは当然のことでした。



 彼らの所に行くには、飯田で高速を降りて、天竜川沿いを小一時間ほど走ったでしょうか、諏訪地方とは大分違った風情が感じられました。近くには、満蒙開拓で多くの家族が移住した「阿智」と言う村がありました。一族や一家の離散と言った辛い歴史のある村ですが、信州人の粘り強さや底力を、何となく感じさせられるようでした。中国の残留孤児の帰国を促したのが、この村で教師をされていたお坊さんでした。この方は、多くの子どもたちと共に開拓に行った過去をお持ちで、やむなく残留せざるをえなかった誇示のみなさんの帰国の働きに献身されたのです。故郷を後にしたみなさんは美しい山河を思し出しては、厳しい農地の開拓に励んだのでしょう。今では、コンビニができ様変わりした村には、『そんなことがあったのだろうか?』と思い出させるものは、村からも村人の心からも消えつつあるのです。



 彼らの所からの帰りに、国道を走っていた時、お腹がすいた私は、『そばを食べよう!』と家内を誘いました。伊北ICの近くの国道沿いに水車のある小奇麗な蕎麦屋でした。品書きに、「蕎麦がき」とありましたので、懐かしく注文しましたら、プリンのように柔らかくて、木の実のタレがかけられている、実に美味しいデザートでした。これが癖になった私は、娘たちが飯田に越し、孫が生まれてからも、訪ねて帰るたびに、この店に寄ることを「定番」にしてしまったのです。いつの間にか・・・彼らの訪問か、蕎麦がきを食べるためか・・・目的がずれ込んでしまったかのようでした。『どこに行きたい?』と聞かれれば、『信州!』、『何が食べたい?』と聞かれたら、『水車屋の蕎麦がき!』と答えることでしょう。いつでしたか、二代目が作ったのを食べたときには、『うーん・・・・!?』と言わざるをえませんでした。初代は、元気でしょうか、どうも秋になって食べ物と人とが恋しくなってきたようです。


(写真は、県立下伊那農業高校・農場の航空写真、中は、阿南町の「ゆうゆうらんど」、下は、箕輪町の「水車屋」の店内です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。