2008年10月19日日曜日

わが身体髪膚いかに装わんや 


 先日、外出時の「出で立ち」を思い出してみたのです。頭には、次兄からもらった「帽子」、上着は、長男夫妻から父の日のプレゼントとしてもらった「チェックのシャツ」、ズボンのベルトは、30年ほど前に次兄からもらった物、下着とズボンは「自前」、靴下は、次兄にもらった物、靴は、昨年天津に来た次男が、デパートに行って買ってくれた「中国製」、肩から提げた「カバン」も次兄がくれたものでした。その中に、弟が送ってくれた書類が入っていました。買い物や遊びに行くときには、次女の送ってくれた「OREGON」と刺繍されてある、孫がかぶっているのと同じキャップを頭にのせるのです。朝、食事のときに飲んだのは、家内の妹が送ってくれた「ブラジル産のコーヒー」、デザートは、次女が送ってくれた「チョコレート」と、家内が日本語を教えた学生が持ってきてくれた「故郷の特産の木の実」でした。時々飲むのが、長女の送ってくれた「アールグレイの紅茶」なのです。『懐かしんでくれるでしょう!』と思ってでしょう、次男のガールフレンドが送ってくれた清里の清泉寮の「かりんとう」と「森永チョコレート」も,、大事につまんでいます。冬になると、愛用する「リップクリーム」は、アメリカの友人が送ってくれて、登場を待っています。

 両親から受けた「身体髪膚(しんたいはっぷ)」を装う物も、これを養い保つために頂く食べ物も、その多くが「頂き物」であることに気付かされて、知人や兄弟や子どもたちの好意によることを知らされて、感謝に心があふれた次第です。就学前に、肺炎に罹って、死線をさまよったときに、入院した病院で、ベッドの下に布団を敷いて、添い寝をして看護してくれたのが母でした。その世話で癒えた私は、その後も何度か肺炎を冒したのですが、『今度罹ったら危ないですから!』と医者に言われながらも、母の懸命の看護で生き延びることが出来たのです。その母の作ってくれた食事を食べ、励まされて、丈夫な体に回復することが出来ました。

 2006年、天津で冬を迎えて、体調を崩した私は、気管支炎でしょうか喘息気味で寝込んでいました。それを知ったオーストラリア人の男性が、アメリカ製の薬を持ってきてくれ、イギリス人の友人が市場で見つけた日本映画のDVDを持ってきてくれました。薬が効いたのでしょうか、愛にあふれた好意が働いたのでしょうか、すぐに元気になったことが思い出されます。



 そういえば、思想だって、哲学だって、教養だって、自分で悟ったりはしていません。みんな先人からの「頂き物」なのです。両親や先生たちが教えてくれたこと、読んだ本、聴いた講演,見た映像、聴いた音楽、それらが私の人となりを形作ってくれたわけです。学校に行かせてくれたのも父でしたし、就職をして、上司につまずいたときに激励してくれたのも母でした。ほめたり叱ってくれた先生たちもいました。生意気盛りの私を殴って、気付かせてくれた先輩もいました。

 自分に今日あるのは「恥じな過去」のみです。思い出しますと赤面の至りで、もし、どこかでお会いしたら、何と言って詫びるべきか、多くの人の顔が思い浮かんできます。まあ最高に苦労を掛け、忍耐させたのは、家内ではないでしょうか。ダイナマイトで砕いたばかりの岩のかけらのように、丸みのない私の鋭い角で、幾たびも心を傷つけてきたからです。そのおかげで、私の方には少し丸みをつけることが出来たでしょうか。



 みんなに、『ありがとう!』と言いたい、大陸の秋10月であります。今日学生たちが、10名来て、みんなで「四季の歌」を、『・・秋を愛する人は、心深き人、愛を語るハイネのような、僕の恋人・・・・』と一緒に歌いました。『妻と子どもたち、友人も親爺もお袋も、みんないて、今日の自分があるのだ!』と感じること仕切りです(1011日記)。

(写真は、「ぼうし」、「甲武信岳(http://www7a.biglobe.ne.jp/~happy-sanpo/sanpokiroku/05/kobusigaatke2/051103.htm)の頂上の岩」、「くつ(http://gigazine.jp/img/2006/07/14/shoelace/288301_8881.jpg)」です)


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。