2008年10月22日水曜日

八百年の時の隔たりを感じて


 もう二年しますと、父の「生誕百年」を迎えます。私と家内の結婚式に出席して、祝福してくれた父は、そのふた月後に、入院先の病院で、六十一年の生涯を閉じてしまったのです。もう少し長生きをして、親孝行をさせて欲しかったと、今日まで、つくづくそう思ってまいりました。明治末に神奈川県横須賀で、軍港を見下ろす小高い丘の上の旧家で生を受けた父でした。自慢話をする父ではなかったのですが、『鎌倉武士の末裔で、頼朝の家来だった!』と、八百年も前に遡ることの出来る自分の家系を話してくれたことがありました。父の唯一の誇りだったのでしょうか。




 小学校の何年だったでしょうか、鎌倉と江ノ島に遠足に出かけたことがありました。お腹がすいて、母が作ってくれた美味しいお弁当を食べたこと、古臭い寺めぐりをしたこと、疲れたことが思い出されるのですが。6年ほど前になるでしょうか、横浜の中華街で昼食を終えて、その足を伸ばして鎌倉に行ったことがありました。子どもの頃とは違って、その関わりを聞かせられていましたから、その鎌倉行きには特別な思い入れがあったったことになります。由比ガ浜の海岸から鶴岡八幡宮を結ぶ「若宮大路」を歩いていたときに、『自分と同じ血の流れる祖先が、馬に乗ってか歩いてか、ここを行き来していたのだ!』と思うと、八百年の時の隔たりを一瞬に埋めてしまって、馬上豊かな「鎌倉武士」にでもなったように錯覚させられてしまったのです。その鎌倉は、征夷大将軍として、初めての武家による政府を建てた源頼朝が、1192年、幕府を置いた古都であります。

 としますと、蒙古軍が日本に攻めてきたときに(歴史で習いました「元寇」の頃のことですが)、九州の大宰府あたりに陣をひいて、一戦を交えた武士集団の中に、わが祖先もいたのかも知れません。そんな想像を逞しくしていますと、歴史に刻まれた800年も前の出来事と、現代に生きる自分とが無関係ではないのだということになり、歴史上の出来事を、ごく身近に感じて、興味が尽きませんでした。もう一度、興味津津に鎌倉時代の歴史を紐解いてみたくなったのです。中国の元代と鎌倉時代の日本とは、そういった意味でも極めて深くて近い関係にあったことになります。


 

 昨日、家内が、「インゲン豆」を甘味噌で合えたものを食卓に並べてくれました。実に美味しい日本の味だったのです。ところが、この「インゲン豆」は、江戸時代の初期に、中国から長崎に伝えられたものなのだそうです。明代の中国の禅宗の「黄檗宗(おうばくしゅう)」の高僧の「隠元禅師」が、1654年に、六十三歳で来朝した折、この豆を持参し、植えられたのが始めだといわれています。この隠元師は福建省に生まれた方で、先日、旅行をしました福清市の「東林村」の出身なのだそうです。ですから、これもまたとても身近に感じて、ことのほか日本風の味付けで、この福州近郊で採れたたインゲン豆を頂くことが出来たわけです。味付けに使った味噌だって、一説によりますと、やはり中国から伝えられたものだと言われますから・・・とにかく、「歴史」と「関わり」を感じながら、隠元師の生まれた近くの町で採れたものを、家内が調理してくれ、美味しく食べたわけであります。

 さて、もう一度日本に帰って、どこかに住むことが出来るなら、南信州の駒ヶ根か、この鎌倉か、父が生まれた横須賀に住んでみたいと思っているのですが、「終の棲家(ついのすみか)」は、どうも自分では決めることが出来ないのでしょう。それも、そう遠くない将来のことですが、それよりも《今日を生きること》、これに専念しなければいけないと、肝に銘じている福建の秋十月であります。正直、望郷の思いがないわけではありません。その思いもまた、当然だといってよいのでしょうか。

(写真は、「鎌倉の海」、「鎌倉時代の食事〈一日二食〉」、「鎌倉時代の武士の住居の母屋〈中西立太画伯の作品〉」です)


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。