2009年5月7日木曜日

拘泥


 7年間、忍耐して私を教えてくださったアメリカ人のKさんは、私にとっては「恩師」であります。彼は、名門ジョージア工科大学を卒業したアメリカ空軍の将校でしたが、その職を辞して来日され、いくつもの事業を興し、日本で召されました。彼は、文学や歴史や心理学や論理学など、多岐にわたって、私に教えてくださったのです。学究的なことのほかにも、妻の愛し方、子育ての方法、体と心のエクササイズといった実践的なことまで教えてくれたました。

 この方には、強い願い、頑固なこだわりがありました。『わたしを先生と呼ばないでください!』と言われたのです。それではなんと呼んだかと言いますと、” Mr.○○ ”でした。『○○さん!』と、彼が召されるまでお呼びしました。独特なヤンキー気質を持たない方で、決して威張ることのない、実に謙遜な方でした。そういえば、私が学ばせていただいたのも、アメリカの長老派から派遣され、「ローマ字」で有名なヘボンという名の宣教師が建学された学校でした。この学校の1つの伝統は、先生も学生も、” Mr.”で呼び合ったのだそうです。先生は、教壇から降りて学生たちと同じ床の上に立って、共に学びあったのでしょうか。また、私の中学校3年間の担任は、社会科を教えてくださった教師で、ほかの教科のどの先生とも違っていたのです。彼は、私の学んだ学校の卒業生ではなく、東京大学を卒業された方でしたが、朝礼・終礼、授業開始時と終了時に 、教壇の上から降りられて、髭もまだ生えていない私たちに、禿げ上がった頭を下げて挨拶をしておられました。母と同世代だったでしょうか。

 最近、『主語を殺した男』と称される、街の語学者・「三上章」という方の評伝を読みました。講談社から2006年11月に刊行された「主語を殺した男 評伝三上章(モントリオール大学・東アジア研究所日本語科長・金谷武洋著)」です。この三上は、明治36年(1903年)に、広島県の過疎地で生まれ、東京大学で建築学を学ばれ、卒業後、旧制の中学校、新制の高校で数学を教えておられた方です。ところが、数学よりも、「日本語文法」に強い関心もを持った三上は、後に国語学で博士号を取られ、大学教授をなさっておられました。ご自分を「街の語学者」と言われて、市井の一研究者として生きたのです。その研究成果は、何冊もの本として刊行されています。国立大学の正統派(!?)の国文学者たちから、無視されながらも一心腐乱に学んで、国文学界、文法学界に一石を投じられたのです。この方もまた、自分が先生と呼ばれることを嫌われたのだそうです。

 「博士呼ばわり」、「先生呼ばわり」されることを嫌い、『三上さん!』と呼ばれることを好んだのです。教え子が、『先生!』と呼ぶことは容認されたようですが。口髭を生やした学者然とした風貌を、ことのほか好まなかったようです。面白いのは、三上の死後に建て上げられた、「三上文法会」と言う研究会がありますが、その唯一の会則が、『席上、同席者にたいして先生の呼称を禁じる。』と言うものだったそうです。代議士も弁護士も「先生」、マージャンや花札やパチンコの指導者も「先生」と呼ばれる、麻酔的な効能のある呼称を、彼もまた嫌って生きたわけです。

 何故か、私の周りには、そういうこだわりをされる方が多かったのです。『先生と呼ばれるほどの○○でなし!』と言われますから、『先生!』と呼ばれていい気持ちにならない生き方・在り方は、やはり大切なものではないでしょうか。孔孟の教えで、教師に対しては格別な敬意を表す中国の社会で、「先生呼ばわり」されないですむのは難しいことなのでしょうか。こちらでは先生を、「老师・lao shi」と呼んでいます。「先生」は、「xian sheng」と呼び、『○○さん!』ですが。うーん、中国語と日本語とではニュアンスがだいぶ違いますよね。それで私も、拘泥(こうでい)するのでしょうか!

(写真は、三上章著「象は鼻が長い(くろしお出版刊)」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。