2009年4月29日水曜日

父(てて)無し子の級友たちの顔が


 今日は、国民休日の「昭和の日」ですね。私たちが中国に来ましたのが、2006年の8月でしたから、日本不在の2007年に、新たに祝日になった日なのです。もちろん、「昭和天皇の誕生日」であったのですが、お亡くなりになった後に、「みどりの日」に名称が変わりました。この祭日に、『休んだ!』との実感がありませんでしたので、不注意に見逃してしまっていました。本日、4月29日、日本から東シナ海を隔てた、ここ福州で、あらためて「昭和」の時代を顧みております。

 一言で言いますと、「激動の時代」だったのでしょうか。アジアや太平洋への戦争の拡大、国内統制、物資の欠乏、多くの犠牲者、終戦、占領、戦後処理、朝鮮戦争の特需、奇跡的な復興、国連加盟、世界第二位の経済大国、学校の崩壊、全学連、自殺者の頻発、公害、環境破壊、薬害、公害対策、天皇崩御、明仁様の即位、公けにはそのような時代でした。私的には、父と母が結婚し、私たち四人の男の子の誕生、戦後教育を受け、就職、結婚、転職、四人の子どもたちの誕生と成長などの時代だったのです。個人的には、テレビで、皇太子・明仁様と美智子さんのご成婚を、アメリカ大統領のダラスでの暗殺事件を、旧ソ連やアメリカの宇宙開発、市ヶ谷の自衛隊での三島由紀夫事件などの、「衝撃的瞬間」を見たりしました。

 その「昭和」の時代が終わって、「平成(1989年1月8日に元号が変わる)」になって、もう21年になるのですね。それにしても、「平成」の実感が薄いのは、どうしてでしょうか。多情多感な青年期を過ごした「昭和」が、どうしても強烈に印象付けられているからなのでしょう。昭和47年・1971年は、やはり忘れることの出来ない年です。父が召されたからです。当時中野の高校に奉職していた私は、出勤したところに、母から電話が入って、入院先の病院で父が召された旨、知らされたのです。母は、『雅ちゃん、びっくりしないでね、実は・・・』と、一呼吸おいて、父の死を知らせてくれたのです。休みをもらって、その病院に駆けつける間、涙がこぼれて止まりませんでした。あんなに泣いたのは初めのことでした。肉親の死は衝撃だったのです。その日は、父の退院の日だったことで、喜びが裏切られたことが、よけい衝撃度を増したのでしょうか。「父の死」の受容というのは、難しかったと思います。親不孝者が、せめてもの孝行のできる矢先だったからでもあります。葬儀がすべて終わって、高尾霊園に、父の遺骨を埋葬したときには、虚脱感で満たされたのを覚えています。もう一方では、悲しんでいるよりは、五十代中ほどの母を力づける必要を感じたのですが、かえって母からの励ましのほうが大きく強かったのではないでしょうか。

 激動の核になるのは、どうしても「戦争」でしょうか。予科練の生き残りの方が、仲間の死に対して、『彼らの死は、無駄な死でも、犬死でもないのです。祖国のために命をささげたからです!』と言ったことばが忘れられません。有為な青年たちの犠牲の上に、新しい日本の再建がなされてきたことになります。そうですね、お父さんを戦争で失った、大激動の中をめげずに生き抜いて来た「父無し子(ててなしご)」の級友たちの顔が思い出されてきます。

(写真は、野坂昭如作「火垂るの墓」のアニメーションのDVD です)

0 件のコメント:

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。