2008年11月29日土曜日

肩を組みながら行く



  『糟糠の妻は、堂より下さず(「貧しいころから、苦労を共にした妻は、立身出世の後も、離縁するわけにはいかない」との意)』と、「後漢書」にあります。この「糟糠(そうこう)」ということばには、妻に対する、夫の心からの感謝が込められているにちがいありません。糟(かす)や糠(ぬか)を食べるほどの貧しい時代を、共に励まし合い、いたわり合って過ごし、耐えて忍んでくれた妻に、心からの『ありがとう!』の気持ちがこめられているのだろうと思われます。

 父特愛の三男の私は、私立の中学に、いくつもの駅を越えて電車通学をさせてもらいました。百二十人ほどの小学校の同級生の中で、同じ町で大きな町工場を経営していた社長の娘と私だけだけが、私立に進学したのです。大正デモクラシーの息吹の感じられる時代に建てられた、伝統ある中学・高校で、六年間学ばせてもらったのです。父の期待を背に感じたのですが、誰からも駆り立てられることなく、自由気ままに過ごすことができました。中学ではバスケットボール部に、高校ではハンドボール部に入って、実に恵まれた少年期から青年期を過ごすことができたのです。ですから、私はお金に苦労したことがありませんでしたし、父に似たのでしょうか、お金を貯めると言うことをしませんでした。五人に一人の進学の時代に、大学にも行かせてもらい、まあまあの職場に就職することもできたのです。

 


 そんな男と結婚したのですから、家内の苦労は、想像がつくと思います。『何時までもあると思うな!』と言われる《お金》が、『何時までもある!』と思う私でしたから大変でした。結婚したとき、家内のほうが給与もボーナスも、はるかに多かったのですが、彼女は、私の収入で生活をすることを決めて、勤めていた職場を、結婚を機に退職していました。すぐに長男が与えられましたから、食べていくだけでも大変だったのでしょう。苦労させました。そんな家内を、『戦友!』と呼んだことがあります。平和を取り戻した昭和の40年代から平成の代に亘って、苦楽を共にした家内を、そう呼ぶことが一番いいのではないかと思ってでしたそんな呼びかけに、家内はただ苦笑いをしていましたが。


  
 この
中国で、一番強い絆が、「戦友」だと聞きました。生まれ育った国と親兄弟姉妹とを愛するがゆえに、軍務に着いた彼らは、死の危険を厭うことなく国防に従事するのです。ですから、その仲間とは兄弟以上の関係が培われるのに違いありません天津でも福州の街でも、街中を通っていて1つ気付くのは、手を繋いだり、肩を抱き合って談笑しながら歩いている二人をたびたび見かけるのです。恋人同士ではなく、女性同士だけでもなく、男性同士が、肩を組んで談笑しながら道を行くのです。『青年なのかな?』と思うと、そうではなく「壮年」のがっちりした大人なのです。子どもの頃に仲良しとは、よく肩を組んで歩いたのを思い出すのですが、大人になってからはしたことはありません。それなのに、中国ではしばしば見受けるのです。これが文化や慣習に違いありません。『ちょっと出来ないな!』と思うのですが、家内とでしたら、この頃足元が危なくなった二人ですので、を繋いだり、組んだりして歩くのですが。きっと日本に帰って、向うから知人がやって来たら、そっと解いてしまうのだろうと思うのですが、こちらで見て学習していますので、繋いだままかも知れません。「ソウコウ」している間に、どちらかが乗せられて、一人が押して行く「姥車(爺車!?)」の光景が見られるに違いないのですが。

(写真は、「中央線の電車模型」http://photozou.jp/photo/show/184380/12883203、「五千円札」http://www.asahi-net.or.jp/~ue6s-kzk/sub15.htm、「肩を組む」http://www.jajapro.com/fan.html、です)

0 件のコメント:

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。