2008年11月3日月曜日

悪たれが褒められて!


 ゲーテは、『子供を愛し褒めるのは、子供がそれに値するからではなく、そうであって欲しいからなのです!』と言いました。また、ある本に、『もう一度、父親をやり直すことが出来るなら、子どもたちの母親を愛そう!』と、家庭での父親のあり方や家庭教育の真髄を、一人のお父さんがそう結論していました。「褒めること」と「愛すること(愛されること、も含めて)」とは、人がもっとも必要としていることに違いありません。結婚して38年が経とうとしているのですが、『心から子どもたちのお母さんを愛してきただろうか?』、また、子どもたちが与えられて、育てる機会を得たのですが、今、それぞれに独立して行った彼らとの年月を思い返して、『彼らを、どれだけ褒めただろうか?』と自分に問いかけてみました。『うーん、不十分!』、これが実感であります

 褒められた子とそうでない子との違いは、歴然だと思うのです。私と一緒に5年ほどでしょうか、近くに住んでいて家族ぐるみで交わりをしたアメリカ人の家族がありました。私たちには、人の子どもがあり、彼らにも人いました。子どもたちが、ほぼ同じほどの年令でしたから、行き来をしながら、しばらくの時期、子どもたちは一緒に遊んで育ったのです。このお父さんは、アメリカ版の「団塊の世代」、いわゆるベビー・ブーマーとヒッピーの世代で、彼もまたそこを通過してきたのです。一流大学を卒業しており、瞬く間に日本語を習得してしまいましたから、きわめて優秀な方でした。その彼のお父さんも、アメリカでは名だたる大学の教授で、博士号を持っておられる方だったのです。優れた学者の父親を持ったことは、彼には素晴らしいことだったのだろうと思ったのですが。彼が、自分の生育暦を語ってくれたところによりますと、実は、そうではなかったのです。優秀なるがゆえに、自分の息子には実に厳しい態度で接したのだそうです。『お前はなんて愚かでグズで馬鹿なんだ!』と言われ続けて大きくなったたのだそうです。YMCAで英語を教えていましたが、5年ほどたってから、アメリカの東海岸の町に越して行かれました。



 そういった父親からの言動で、彼の心は傷ついていました。頭脳明晰なのですが、自分に自信がなかったのですね。もし彼のお父さんが、彼を褒めて育てたら、彼のようなジレンマを持つことはなかったのではないかな、と思ったのです。『僕は友達は欲しくなんだ!』と、なんどか言っていた彼は、帰国されたアメリカでも、なかなか社会の中に溶け込めなかったようでした。その後、音信がないのですが、今頃何をしていることでしょうか。

 一方、学習障害児のような私は、小学校の教室で席を暖めることができなく、いつも立ち歩いていました。2年生の国語の時間に、担任のうちやま先生に褒められたことがありました。教科書に記されていた『ゴトゴト、ゴットン!』という擬音を、『この音は、線路の切り替え線を越えて行くときに、車輪とレールによって出る音です!』と答えたのです。授業に集中することが出来ない私でしたが、珍しく聞いていたのでしょうか、積極的に発言をしたのです。そうしましたら、『よく分ったわね。すごい!』と、細か な観察力を評価してくれて、褒めてくれたのです。『今は落ち着きがなくても、いつかは落ち着くでしょう!』と将来の可能性も、先生は見てくれたのではない でしょうか。叱られ立たされるばかりに私が、学校で初めて褒められたのです。それは「千金に値する言葉」だったと思います。それから学習意欲が出てきて、学校が楽しくなったのを思い出すのです。




 褒められた悪たれで劣等生の私と褒められなかった優等生の彼と、それぞれの道を生きて、『お爺ちゃん!』と孫たちに呼ばれる年齢に、もうなってしまったわけです。それで、彼にも彼の日本人の奥様にも、四人の子や孫たちにも会ってみたいなと思うのです。お互いに27、8年も経って、やり直しが効かない年齢になってしまったのですが、きっと彼は好々爺になって、孫を抱きながら満面に笑みを浮かべていることでしょう。

(写真は、「ゲーテ像」旅行のクチコミ投稿ポータル「CoRichトラベル!」beta版より、かつてみんなで見上げた「山」と「花」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。