2007年3月13日火曜日

平成の鎌倉武士


 私の父は、『我が家は、頼朝から拝領した土地に生き続けてきた鎌倉武士の末裔なのだ!』と言っていました。何も残さないで逝った父の唯一、立つところだったのでしょうか。そのせいでしょうか、父が、よく「高楊枝」をくわえていたのを思い出します。でも、武士の出と言っても、それは遥かに昔の話で、この間まで畑を掘り起こして、土のにおいのする百姓武士(郷士)だったに違いないのです。それでも「一分」の武士の魂・心意気を受け継いでいたのだろうと思うのですが、平成の御世には、いかほどの事なのでしょうか。 

 3年ほど前のことですが、娘に誘われて、南信州の大鹿村に残る、田舎歌舞伎を見たことがあります。徳川幕府の禁制をかいくぐって伝承されて来た、本格的な歌舞伎でした。その時の演目は、「菅原伝授手習鑑」で、自分の子を主君・道真の子の身代わりに殺してしまうと言う話です。しかも、その子は承知で進んで犠牲になるのです。何時かご覧になられることを願って、詳しい話を省略します。悲しい話ですが、何となく分かるのです。イスラエル民族に伝わる話しの中に、似たような話があります。父に殺されそうとする子は、分っていて祭壇に自らを横たえるのです。「父への従順」と「父への飽くことの無い信頼」を示すのです。

 事の是非は論じませんが、こういった精神こそが、武士の魂なのでしょうか。下克上で、主君を裏切る者、実父を実子を殺してしまい、娘を政略結婚の犠牲にしてしまう時代の只中で、「潔さ」が、そこに示されているのです。

 私の叔父は、大学在学中に学徒出陣で、戦地に赴き、南洋で帰らぬ人となりました。学問を好んでいた叔父は、兄弟姉妹を思い、故郷をしのび、恋する人を心に抱えながら戦死したのではないでしょうか。学徒兵たちが、遺書には『天皇陛下万歳!』と書いても、死に際には、母を父を弟妹を呼んだのだと言われています。無謀な戦争でしたが、父や母を守ろうと、命をささげた方々の大きな犠牲によって、尊い「平和」を得たわけです。真の武士は、無茶苦茶には生きないのです。しっかりと歴史を認識して、過去の何が間違っていたのかを見極めて、はっきりと謝罪し、潔く認めることです。

 百姓武士の末裔ですが、アジアの人と土とを愛して、平和と和解とに役立てたらと、心から願う春待望の今日この頃です。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。