2007年3月25日日曜日

筑後川の水で産湯につかった義母


 敗戦後の食糧難の時代の子育ては大変だったようです。家内の家族は、東京都下に住んでいたのですが、嫁入りに九州から持参してきた和服を、たんすから1つ1つと出しては、義母は幼い家内の手を引いて西武線に乗って埼玉の田舎に行っては、米や味噌や野菜と物々交換して食べ物を工面していたそうです。子供たちを死なせるわけに行かなかった苦肉の策でした。そう家内が話してくれました。飽食の時代の今では考えられないことですが。

 ある時、その自分の着物を着ている婦人を、義母が偶然見かけて、複雑な表情をしていたのを、家内は覚えているそうです。丈夫だった義母は、栄養不良で肋膜を病み、通院しながら治療に当たりました。通院の待合室には、同じように病んだ女子大生が多くいたそうです。医者も空腹で不機嫌だったリ、自暴自棄だったのでしょうか、『あなたの病状は最悪で、そう長くは生きられないよ!』と病友の学生に言うのを聞くのです。そういわれた彼女は、通院して来なくなり、亡くなったのです。その病友のに激した義母は、『人の生死を握る医者の不用意なことばが人を死なせてしまうのだから、注意してください!』と、その医者に大抗議をしたのです。


 「ことば」が人を死なせるほどに力あるものであることを知らされた母が、その後、出会ったのが、一冊の小冊子でした。その巻頭に、「初めにことばがあった・・」と書いてありました。その意味を知りたくて訪ねた方が、実に丁寧に解説してくれたのだそうです。その様にして義母は、人を生かすことの出来る「ことば」に出会ったわけです。

 その「ことば」に励まされ、勇気付けられて、肋膜もすっかり癒され、6人の子育てを無事に果たし、明治、大正、昭和、平成を生き抜いて、今週96歳になります。人の悪口を言ったり、噂話を決してしない女(ひと)なのです。結婚生活や子育てで悩んでいる多くの女性の相談にの
って、義母は彼女たちの激励者として相談員として生きて来たのです。

 筑後川の水で産湯につかり、昭和の初期に、上京して学んだ女学生だったのですが、下宿で襲われそうになって、二階の窓から飛び降りて難を逃れるような危機もあったようです。今、義妹が介護しているのですが、体のどこも悪くないのです。ただ二階から飛び降りた時に痛めたのでしょうか腰だけが悪くて、ベッドに寝ているのですが。

 『お義母さん。心からのお祝いを申し上げ、残された日々に倍旧の祝福を、異国の地から申し上げます。』
(写真は、「久留米城址」 久留米市HPTより)
*筑後川のライブ映像http://220.99.116.203/programs/camera/camera.cfmです

0 件のコメント:

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。