2007年3月2日金曜日

愚直の反骨精神


 時代の流れに逆行して生きるのは、確かに大変なことです。『その時代の正しさは、多数の人がよしとする多数決原理が決めることだ!』と、以前、ある新聞のコラム欄に読んだことがあります。そうしますと、少数者は常に間違っていると言う事になってしまうのですが、本当に、そうなのでしょうか。いつでしたか、『赤信号みんなで渡れば怖くない!』と言うことばが流行ったことがありました。「みんな」の中に紛れ込んでしまうことを言い当てています。信号を守る私は、なぜか独りでさびしそうで、行動を共に出来ない、はみ出し人間になってしまっています。赤信号を渡っている人が正しくて、守っている私が誤っているのでしょうか。そんなことはありません。

 そういったこととは真反対に、「反骨主義」を貫いて生きている人もいるのです。内村鑑三が、「教育勅語」を読むときに、天皇皇后の写真への拝礼の角度が足りなく、「不敬行為」だとされて、結果的に一高の教壇を追われる事件がありました。また、元東京帝大教授で貴族院議員・美濃部達吉が「天皇機関説」を著して、不敬罪で告訴されて議員を辞職しています。最近ですと、亀井静香らが、「郵政法案」に反対して自民党を追われました。さらに高校の先生が、「国歌」の唱和を拒み、「国旗」への拝礼を拒んで裁判沙汰になっています。先生にも、しない自由があるのだと思っていましたら、そうではないのですね。しない人は罰せられるわけです。その時、決まって言われるのは、『みんながしている事を、どうして出来ないのか!』と言うことなのです。

 信条や思想が原因して、出来ない人がいてもよいのが、「自由主義社会」のはずです。韓国の京城(現在のソウル)にあった女学校で、「宮城遥拝」をしなかった女学生がいました。「しない自由」の無い時代のことだったのです。けれど、彼女は、人に過ぎない天皇や天皇の住む東京に向かって、拝礼する事が、どうしても信条上出来なかったのです。ところが、敗戦した日本で、天皇は、自ら「人間宣言」をしたのではないでしょうか。昭和天皇は正しく人でした。直腸癌に侵されて病死する人だったのです。あの時代の「みんな」が神に祀り上げただけです。 

 「多数決原理」は確かに公平の原理ですが、少数者を無視し、ないがしろにしたら、多数者の過ちを犯してしまうのです。その過ちで、どれだけの有為な青年が死んでいったことでしょうか。私の叔父も戦争で逝きました。

 何だか、軍靴の靴音が遠くから聞こえてきそうでなりません。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。