2007年3月25日日曜日

90歳、おめでとう!



 「90歳のお誕生日おめでとうございます。
 心からお祝いを申し上げます!

 長寿は、忠実なお方からの祝福ですね。ただただ長生きできたことを、心から感謝されたら素晴らしいと思っています。体調が、若い頃のように優れないのは、長寿者の「おつり」のようなものかも知れませんね。そのことを嫌がらないで、また戦わないで、ただ感謝していて欲しいと願っています。ぼくも60過ぎで、若いと言われますが、矢張り年相応ですから。

 お母さん。ぼくが高校2年の時に、連絡があって、病院に駆けつけた時に、治療室だったと思うのですが、ベッドで顔をしかめて劇痛と戦っていたお母さんの顔を覚えています。後で傷跡を見たときのひどさに驚かされて、『痛かったんだろうな!』と思いました。その後、1年近くの入院生活で、転院先の病院にお見舞いに、たびたび行かせてもらった日々を思い出します。同室の女性患者の皆さんの事も良く覚えています。ちょっと好色な東北出身の方がいましたね。入院生活が長かったですね。その間、親爺が野菜スープを作ると、『剛、これを持ってお母さんのところに行ってくれ!』と何度も言われて、バスで駆けつけたことがありました。切断の危機を超えて、癒されて、あれから50年近くも歩き続けられたのですね。すごい上からの癒しでした。お母さんの強さと粘りとには驚かされっぱなしです。ただただ感謝です。

 また、○○の職場にいたときに、婦人科の治療で日本赤十字病院で、お母さんが入院手術をされました。その術後に家族が呼ばれたのですが、親爺が、『剛、行って聞いてきてくれ!』と言って、親爺の代行で、先生から摘出した卵巣の事を聞かされたことがありました。○○先生が、『お母様は、残念ですが良くて半年くらいです!』と厳しい表情で言われて、家に帰って親爺に報告しました。その時、親爺は、『剛、覚悟しような!』と言っていました。その頃、△ちゃんは、ちょうど九州にいて、そのことを知って、『お母さんに、本当の事を知らせたらいい!』と、たいへん強く言ったのですが、『信念があっても、万が一にも気を動転させるかも知れないから言ってはだめだ!』と言って、ぼくは頑なに反対したのです。これに親爺も賛成でした。お母さんには分かっていたのでしょうね。

 そのようなお母さんが、40年も生き続けて来られたのは、まさに奇跡でしたね。あの日赤の病室に、「病室名主」がいて,その取り巻きたちが、意地悪な顔を向けていたのを覚えています。内科患者の病室の暗い一面でしたね。洗面器に水を汲んで、ベッドのところで、お母さんの体を拭く手伝いをしたのを思い出します。ああいった事をしてくれる家族の見舞いが少なくなっていた長期入院患者さんの心理としては、妬ましく思えたのも仕方が無かったのかも知れませんね。でも。あそこにい続けないで癒されて退院できたのですからすごいですね。

 お母さんの死を覚悟した親爺が61で召されてしまって、そのあと35年もお母さんは、独りで生きてきたのですね。強いと思います。人の一生とは不思議ですね。『俺は日蓮宗!』と言っていた親爺が、最後には、お母さんの信仰の感化を受けてでしょう、信じて召されて逝ったのだから、これもすごいことですね。親爺も実母の愛を知らない人だったけど、お母さんと共感できたのだから幸せだったのではないかと思います。さびしい少女時代の他人に言えない葛藤を経て、お母さんに人生の強力なバネが出来たのですね。恵まれない環境を跳ね返して、よく強く生きてきたものです。上からの恵みですね。また幼馴染に誘われて、カナダ人のご家族との出会いは、上からの配剤だったに違いありません。彼らを通して戴いた素晴らしい贈り物を守り通して75年が過ぎたのですね。ただ賢きお方の溢れるような恵みですね。

 いつでしたか、テレビを見ていた親爺が、悲しい場面で、涙を流して、その涙を何度もぬぐっていたのを覚えています。意外と純情だったのですね。実母の愛を受けなかった男の特徴は、女性に母の暖かさ、特に乳房と抱擁を求める心理が、行動をとらせるのだそうですから、そんな親爺に、お母さんもたびたび苦しんだのですね。どうにもならない男の性に耐えたわけです。そんな親爺に、よく似たぼくが、女道楽に走らないで、今日まで生きて来られたのも、お母さんの支えが会ったからだと思います。ただただ感謝です。

 お母さんが、人の悪口を言わないで生きていた女性だった事、じっと我慢の母や妻だった事に心から感謝し、拍手します。上なるお方の祝福の実りですね。学校を出て、○○の職場で、上司の悪意やいい加減さにつまずいて、逡巡していたぼくに、何度か、忠告のことばを、お母さんが語ってくれた事がありました。それは大きな助けでした。感謝です。

 また、ぼくの子供たちに産湯をつかわしてくれたり、孫も抱いてくださって、心から感謝です。今は遠く離れたところで生活を始めたぼくと家内のために、何時も支えていてくださる事を心から感謝しています。「全世界に出て行って・・・」との御声に迫られて、従わざるを得なかったのです。これから、何が出来るかわかりませんが、心の思いを整え、ことばを覚え、幻をいだいて前に向かって進んで行こうと願っています。お母さんの幼馴染が、『熱河』に来られて働かれた事を聞いて、きっと若かったお母さんの思いの中にも、『私も!』と言った思いがあったのではないかなと感じています。特に、○ちゃんが協力的に支えてくれて、物心両面で助けていてくれる事を心から感謝しています。本当に彼は優しいですね。子供の頃に、親爺に怒られたぼくに同情して、一緒に泣いてくれたり、外に出された時に、一緒に出てくれた事が何度もありました。彼の心根がほんとうに優しいのですね。大変励まされています。彼の心配りが、一番嬉しいことで、大きな支えです。

 ただ△ちゃんが、心や顔を、ぼくたちの方に向けてくれないのは残念なのですが、彼のような冷たさも、○ちゃんの暖かさの半面に、ぼくたちに必要な事なのかも知れませんね。いやだとは思いませんが、矢張り残念です。賢きお方の前では、勝利しています。何時か分かってくれると信じていますが。○○の皆さんも、△ちゃんと同じ気持ちなのでしょうか。自分の出てきたところなので、矢張り一人の「人の子」としては、理解してもらえないことはさびしいものです。でも励まされていますので大丈夫です。ご心配なさらないでください。

 孫たちも元気に健やかに成長しています。次男と長女が、先月、ここに来て、ぼくたちを問安してくれました。親子逆転劇で、いろいろと足りない物を買ってそろえてくれ、美味しい日本料理やアメリカ料理を食べさせてくれました。

 お母さんにも来て欲しいなと思っています。日本の港から船が出ているのですが、船だと体を横にすることが出来たりですから、楽なのですが。玄界灘を渡って来てくださったら嬉しいのですが。○ちゃんとだったら来れるのかなと思っています。考えてみてください。◇ちゃんが退職しているから、ふたりで来たらいいのですが。

 お母さんのお世話を◇ちゃんと○子さんに任せっぱなしにしていまして申し訳ありません。良くしてくれている○子さんと◇ちゃんには感謝で一杯です。したい気持ちは、ものすごくあるのですがお赦しください。△ちゃんと△△代さんは、お母さんをいたわって優しくしていてくれますか。お母さんが、我慢だけしているのではないのでしょうか。でも、お母さんは強いから問題ないと思います。

 お母さんの誕生祝いが出来なくて残念です。気持ちだけ、ここから贈らせていただきます。まだまだお元気でいてください。お母さんの支えをいつも覚えています。
 祝福を願っております。
                                  2007年3月19日
                                 三男 雅仁、妻○子から
(写真は、母の母校「出雲市立今市小学校(昭和52年当時)」 今市小学校のHPから)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。