2009年4月17日金曜日

踏春


     「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、
     兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。 」

 「アイデンティティー(identity)」ということばがあります。英語の訳語は、「正体」とか「身元」と訳したらいいのかも知れませんから、『私は誰?』、『どうしてここにいるの?』、『これから何をするの?』という問いかけになるでしょうか。また、「ルーツ(root)」は、「起源」とか「祖先」になるでしょうか。私たち日本人の正体ですが、かつて、「単一民族国家」を形成してきた「大和民族」であると言われていましたが、今では、そういったことを声高に言う人はいなくなりました。としますと、「混血民族」であることに間違いはありません。

 中国に参りまして、まもなく三年になろうとしています。この間、多くの人と出会ってきましたが、昨年末、私たちのお世話をしてくださる方の友人が来られ、時々、我が家にも来られるのです。その彼女が、家内の召された兄の令夫人に、びっくりするほどそっくりなのです。この方だけではありません、『エッ!○○さんにそっくり!』という方に、これまで何人も会ってまいりました。お会いした方ばかりではなく、私の家内は、最近は中国人に思われていて、町で路を聞かれては、二度に一度は答えることができるようになっているようです。同じ土地の上で、同じ空気を吸い、水を飲み、食材を食べていますから、風土に見合った顔つきになってくるのでしょうか。人間とは、それほど風土に見合ったものになるのかも知れません。

 それもそうでしょうけども、民族的には、ほとんど代わらないのではないでしょうか。私の血の中に、中国人の血も、朝鮮民族の血も、南方民族の血も、イルクーツク人の血も流れているに違いないからです。ことのほか福建省は、日本に近く、長い年月にわたって文化交流や人間の往来があったからでしょうか、ことばや習慣が似ているのです。こちらの方言の「闽南话(台湾語とほとんど同じ)」で、「いち、にい、さん、しい・・(五以上は違いますが)」は、日本語と同じですし、『エッ!』と思うほど似ていることばが、方言の中から聞こえてきます。また「黄檗宗(禅宗)」の日本での開祖は、私たちの隣町の福清の出身の「隠元」なのです。そういった交流や往来を、文献的に研究したら、面白い発見が出来るのではないかと思っています(そういった研究がなされていますが)。ポリネシア人の友人がいますが、体型は別にして、日本人とほとんど変わらないのです。

 先週、福建師範大学の日本語学科の「スピーチ・コンテスト」に行ってきました。私たちと親しく交わりをしています一人の学生が、日中関係は、「一衣帯水」の関係にあることを語っていました。彼らの話を聞いていて分かったのは、多くの若いみなさんが、日本語と文化を学ばれ、こちらで生活している日本人との交わりを通して、良い体験をしていることでした。かつての偏見や誤解が氷解して、日本の良さと弱さとを、しっかりと理解したうえで、良好な関係に回復することを願って、「架け橋」になろうとしているのです。

 子どもの頃に、聞いていた中国人のイメージは、長いキセルでプカプカと煙草を吸って、働くことが嫌いで、動きが鈍重だというものでした。こちらで私がお会いしている中国のみなさんは、くよくよしないで、豊かな感情の持ち主で、困難を上手に跳ね除け、実に勤勉ですし、行動も敏捷なのです。『あれっ!』と思うことも、文化と習慣の違いですからありますが、悪いのではないのです。彼らだって、『あれっ!』と、日本や日本人について思われることはたくさんあるのでしょう。互いが、相手への《要求》を引っ込めて、《理解》をもったら、素晴らしい関係を再構築することが出来るはずです。「踏春(ta chun)」と書いて、「春に郊外にピクニックすること」と日本語に訳すのですが、春の気分を豊かに言い表した、素晴らしいことばを知りました。このように、漢字の恩恵を受けたことを、日本語を教えながら、痛切に感じております。様々に「近さ」と「親しさ」、そして「懐かしさ」を感じさせられてなりません。

(写真は、わが借家の裏庭に咲いた可憐な春を告げる「花」です)

2009年4月14日火曜日

王への敬愛と感謝を!



   「・・・王とすべての高い地位にある人たちのために・・・感謝・・・しなさい」

 最近、今上天皇(平成)でいらっしゃる、明仁様の逸話を読みました。新憲法下で、国の「象徴」となられ、人間宣言をされた昭和天皇のご長男でいらっしゃいます。学習院に学ばれて、昭和34年1月14日に、正田美智子さんと結婚をされました。今年、ご成婚五十周年の「金婚式」を迎えられたのです。私は、結婚式後のパレードの様子を、テレビの中にまぶしく見せていただいたのを、よく覚えております。さらに、昭和64年1月8日、第125代の天皇に即位されましたが、その様子も、テレビで見せていただいて、「国王」のいる英国と同じように、『日本は王を戴く国家である!』と言うことを、改めて思わされたのでした。横暴で、権威の座に安穏として、ほしいままに権力を行使した王は数あるのですが、明仁様は、王でありながら、実に謙虚で誠実な方であることに、驚かされるのです。もちろんお会いしてことばを交わしたことなどありません。でも知る限りにおいて、このようなへりくだって、いたわり深い王様を他に知らないのです。

 明仁様が、学習院大学に在学中のことだそうです、東都大学野球の試合がありますと、ちょくちょく神宮球場に応援に行かれたのだそうです。学習院のエース・ピッチャーが親友であったからだそうです。もちろん母校愛での応援でもあったのですが。そのときの様子を記している雑誌の引用を引用します。「当時の『野球少年』という雑誌に、こんなレポートが掲載されている。<ゲームは熱戦をくりかえしながら進んでいきました。ところが皇太子さまは、相手チームがエラーしたときなどは、応援団がさわいでも、ご自分はいっしょに手をたたいたりなどはなさらないということに気がつきました。熱狂すると、敵がエラーでもすれば、ついさわぎたくなるものですが、相手にとってみれば気持ちのよいものではありませんし、スポーツマン・シップからはずれているように思います。そんな応援をなさらない皇太子さまは、やっぱり日本の少年たちの代表だと思いました。> 」、二十歳前後の明仁様が、このように振舞われたのです。

 《相手の失策を喜ばない》、これこそ一事が万事でしょう、このような心や態度をお持ちの方が、私たちの国の「王」であることを、誇りたいのであります。もちろん王様は、信仰の対象ではありません。しかし国民が、立てられた王に、心からの敬意を示すのは、当然なことではないでしょうか。「・・・王とすべての高い地位にある人たちのために・・・感謝・・・しなさい」と、私は学ばされましたから、心からの敬愛と感謝とを表したいのであります。

 明仁様、美智子様のご健康とご長寿を、心から願っております。

 ところで、義父は、自分の家系などにはさらさら関心は無かったのですが、長男を《馬の骨》呼ばわりされて、癇に障ったのでしょうか、どうでも良いと思っていた家系のことを、綿密に調べたのだそうです。そうしましたら、なんと天皇家の家系に属することを突き止めたのです。『だから、どうなのですか?』と聞き返されてしまうので、結局はどうでも良いことにして、義父は、ブラジルのサンパウロの地で召されて、何ももたずに天に帰っていきました。遺骨も、大西洋の海原に散骨してしまいました。そうしますと私の四人の子どもも、四人の孫たちも・・・・、明仁様と・・・・、うーん、考え過ぎでしょうか。

(写真は、新華社のネットに掲載された「金婚式記念(2009年4月)」の天皇ご夫妻、2008年5月、明仁天皇(左から3人目)と皇后(右から3人目)は胡錦濤主席(左端)を滞在中のホテルに訪ね、胡主席と劉永清夫人(右端)です)

2009年4月12日日曜日

《隣の三尺》と《おらが三十尺》


 所帯を持ってから、一度だけ、一軒家に住んだことがあります。それも、四軒とも同じ造りの借家で、持ち家を作る前の仮住まいでしょうか、まだ幼い子どもが二人ほどの家族が、まわりに住んでいました。家と家との間が1.5メートルほどで、西側の窓をまたぐと隣の家に入り込めそうでしたし、東側の窓からは、隣の大家さんの息子の家の浴室が鼻の先にありました。それ以外は、アパートや市営・県営の一棟30~50軒ほどの集合住宅に住んだのです。引越しの多かった我が家で、市営住宅の5階に住んでいたときのことでした。子どもたちが留学中に引越しをしたので、彼らには引越しの実感が無く、帰国して違った家に帰って来なければならなかったわけです。そんなことが何度かありました。あるとき下の娘が、アルバイトを終えて帰った来たときに、あわてて階段を駆け上がって、ドアーを開けて玄関で靴を脱いで顔を上げると、お客さんが出て来たのです。『こんばんわ!』と言ったのでしょうか、でも、そのお客さんが怪訝な顔をしていたのです。玄関を見回すと、いつもとちっとたたずまいが違うのに気付き、『あっ、間違えた!』と思ったのだそうです。詫びて方法のていで駆け下りて、隣の階段から我が家に帰って来たことがありました。笑えない出来事でした。我が家も、その家も、玄関のドアーに施錠をしなかったから、こういったことが起こるのですし、もちろん同じような階段とドアーですから、考えずに帰宅したらありうることなのでしょうか。その上、留学から帰って間もなくでしたし、彼女も少々おっちょこちょいだったこともありますが。

 こちらに来るまで住んでいたマンションでのことでした。ある日、玄関に、『静かにしてください!』との張り紙がされてありました、隣家の仕業でした。『掃除機の音がうるさい。洗濯機の音がうるさい。話し声が大きい!』そういったことが書いてありました。それで、極力音を加減しながら生活を続けたのですが、もう一度張り紙があり、戸袋の新聞受けにも、抗議文が入れてありました。ことばで訴えるのならまだしも、張り紙をされて、我慢の緒が切れてしまった私は、大人気なく隣の玄関を大きな音を立ててたたいてしまったのです。音といったって、生活音です。傍若無人に生活していたわけではありません。集合住宅での生活術をわきまえていたつもりだったからです。その一件があって、東京の渋谷から、彼女のお母さんが呼ばれて駆けつけました。そのお母さんと家内が話をしたのです。『娘は夜中は起きていて、昼間は寝ているので、お宅の音が気になるようです!』と弁明したのです。朝方に眠りだす人の隣家の我が家で、ノーマルな日常を開始して、朝起きて、早過ぎないようにして洗濯機を廻すのですから、無理難題をしていたわけではありません。間もなく、越していきましたが。数少ない隣人との悶着でした。

 《隣の三尺》と言うことばがあるようです。隣と接する玄関先を掃き掃除するとき、隣家の前の通りを、1メートルほど進入して掃くことの勧めです。掃き過ぎてもいけないし、ぎりぎりの線までしか掃かないのもいけない、これが《程よい範囲》なのです。狭い日本の社会で、先人が悟った知恵なのでしょうか。ここ中国では、そんな気遣いは感じられません。足元に、『ガーッツ、ペ-ッ!』と痰を吐かれますし、上の階から、『ひらひらやドスン!』とゴミや物が我が家の庭に捨てられます。まさに《おらが三十尺》です。それでも、お世辞笑いでは無いのですが、みなさん人懐っこいのです。慣れました。でも《隣の三尺》を気にしなければならない気遣いの社会から、気を使わないでいい社会に住みますと、自由でいいのでしょうか、開放されてこちらの生活に満足している日本人に時々、出会います。でも、日本に帰ったら、『礼儀知らず!』とか『世間知らず!』と、『言われないようにしないといけないだろうな?』と、もう気にしているこのごろであります。

(写真は、HP《若き建築家氏間貴則の挑戦》の「玄関」です)

2009年4月10日金曜日

いなり寿司


 『好物は何?』と言われたら、真っ先に答えるのが、「いなり寿司」なのです。運動会のときや遠足に、母が持たせてくれたからでしょうか。普段も食べていたのでしょうけど、特別に、「運動会」のときに食べたときの美味しさが、きっと強烈だったのだと思います。小学校では、兄たちは、各学年の代表で、「部落対抗リレー」に出ていたのですが、病欠児童の私は鈍足でしたから、出してもらったことが、まったくありませんでした。クラスの徒競争でも、ビリかビリから二番手と言ったところがお決まりでした。で、応援席で席を暖め、荷物番をしていて、それでもお腹の空いたところに、甘辛く煮込んだ油揚げに、細かく刻んだ人参や蓮根を入れた酢飯を詰めた「いなり寿司」を食べては、代表になれない憂さを晴らしていたのでしょうか。ほろ苦い経験でした。それでも小学校高学年になった頃には、健康になって、マット運動や跳び箱などには、『雅、お前やってみろ!』と担任に言われては、試技をするほどになっていたのです。6年のときは、学級委員を一度もさせてもらえなかった私は、「体育部長」をさせてもらいました。給食の無い時代でしたから、手作りの昼飯がほとんどだったのですが、そのときにも、「いなり寿司」があったのです。

 『中国では食べれないよなあ!』とあきらめていたのですが、なんと、今日、家内が作ってくれたのを6つも食べてしまいました。『美味しかった!』の一言に尽きます。福州の店に、「油揚げ」はあるのですが、しっかりと重量感のあるもので、日本のように、巾着のように開いて、酢飯を入れて、いなり寿司を作れるようにはなっていないのです。じつは先日、家内の妹が送ってくれた小包の中に、「味付けの油揚げ」が入っていたのです。それを使って、家内が今日作って、そっと出してくれたわけです。その小包の中には、「イカの塩辛」、「わさび漬け」も入っていました。炊き立てのご飯にのせて食べたのですが、普段は一杯なのにお代わりをしてしまいました。福州に日本食品を売っている小さな店はありますが、種類もわずかですから、塩辛やわさび漬けなどはありません。日本食品は無くても大丈夫なのですが、こうして食べてみますと、自分が「真正の日本人」なのだと思わされるのですね。何十年も食べてきた食べ物が、嗜好を決めるのですから、中華料理がどんなに美味しくても、日本では、どうということのない通常の食物が光り輝いて見えますし、高級で高価な日本食品以上の価値を、舌と胃袋が感じているのです。

 外国住まいの経験の長い義妹が、『こんなもの食べたいよね!』と思って送ってくれたわけです。眠った子を起こされた私は、『塩辛も食べてしまったし、これからどうしようか?』と思ってしまうのです。でも「宇宙船」に乗り込んでいる日本人飛行士・若田光一さんは宇宙に長期滞在するのですから、まず「塩辛」も「いなり寿司」も食べられないのでしょう。私たちのほうが恵まれていることに、感謝しないといけないようです。でも日本食とは、こんなに美味しいものなのでしょうか、改めて納得したところであります。来月は五月、日本では、《山ホトトギス初鰹》の季節になるのでしょうか。うーん、胃袋が羨ましがっています!

(写真は、HP《カトミエ》の「いなり寿司」です)

2009年4月8日水曜日

『な、そうだろう!』


 家の近くにコピー屋さんが数軒ありますが、週に何度もお願いする私は、まあまあのお得意さんなのでしょうか。以前は、一枚が1.5毛でしたが、最近は2毛に値上がりしています。師範大学の構内にある店では、1.2毛ほどになりますが、便利な近場を利用しているこのごろです。2毛と言いますと3円ほどになるのですが、日本のコンビニの1枚10円に比べますとだいぶ安く感じられますが、こちらの物価を考えますと、やはり高いのかも知れません。三日ほど前に、いつもの店とは反対方向の150mほどの外国語語言学院の近くの店で、53枚のコピーをお願いしました。10元6毛でした。20元札と6毛を渡しましたら、15元のおつりをくれたようです。確かめずに、ポケットの中にねじ込んだのですが、やはり、つり銭が多過ぎでした。『儲かった!』とは思わなかったのですが、あまり考えないで、『まあいいか!』と思いながら家に帰ってきたのですが、そのつり銭が気になってならないのです。迷っているうちに、心の中に平安が無くなってくるではありませんか。5元ですから、70円ちょっとで、牛肉入りの米粉麺を一杯食べられる一食分の値段なわけです。いたたまれなくなって、家内に一言言って、その店に、とって返しました。こちらで「板番(ラオ・バン」と呼ばれる店主に、『つり銭が多すぎたよ!』と言って説明して返金したのです。

 値段を高くされ、つり銭を少なくされるのは、天津でもそうでしたが、ここ福州でもちょくちょくあります。どうしても韓国人か日本人にしか見えない私たちは「外国人」ですから、《外国人価格》があるのでしょうか、ネギを背負った「カモ」の到来に、『しめた!』と思うのでしょうか、そういうことが多くあるのです。そうされますと、決まって『過去の日本が、この国で搾取したんだから、子孫同士が立場の逆転で、そうされてもまあ仕方ないか!』と思うのです。また、『いやな思いをしないですむから、次からは、スーパーに行こう!』と思ったりするのですが、やはり通り道の小商店で買い物をしてしまいます。人のよさそうに見える家内は、しばしばのことですが。

 でもそれとこれとは違うのです。『だまされることが多いのだから、つり銭の間違いが一度くらいあってもいいか!』と言う論理が、思いの中に立ち上がってきたのは事実です。でも、置忘れたり、落としてある財布の中からお金を取って、自分のポケットに入れると、それは「窃盗犯罪」になるのですね。立件されて処罰された名ある人のニュースを何度も聞いていました。それよりも何よりも、『盗んではいけない・・・だましてはいけない。』という声が、こだましてきたのです。その店で説明していたら、板番の娘が覗き込んでいました。5元を返して、受け取った彼は、『謝謝!』とにっこり笑って意外な出来事に感謝をあらわしたのです。でも感謝はこちらがすべきことでした。

 昔なら、『もうかった!』と思うのは当たり前で、万引きを繰り返した窃盗小学生の過去あるわが身ですから、髪の毛が白くなって再び、同じ轍(わだち)の中にはまりそうな中から救出されて、ホットしたのです。『石川や浜の真砂に尽きぬとも、世に盗人の種は尽きまじ』と、五右衛門が辞世の句を詠んだと言われますが、もう少しで彼に、『な、そうだろう!』と言われそうでした。桜満開の北日本のニュースを聞いた、福州の4月の初旬であります。

(写真は、京の三条大橋で釜ゆでになった「石川五右衛門」の錦絵です。写真を右クリックしますと大きく見られます。)

2009年4月6日月曜日

「忍」と「和」との隔たり


 30年の結婚歴のある夫婦を対象に、シチズン時計が、アンケート調査をしました。『結婚を漢字の一字でどう表しますか?』と言う問いに、総合順位は次のようでした。一位は「真」、二位は「和」、三位は「絆」、四位は、「愛」でした。男女の違いがあったのはそれぞれの二位でした。男が、「和」であったのが、女では「忍」だったことです。いわずもがなの結果なのかも知れません。やはり妻たちのほうが、忍耐して結婚生活を送っていることになるわけです。そういえば、私たちの結婚生活も同じようなことがいえるのだろうと思うのです。短気でおっちょこちょいの私は、その日、何があっても一晩寝てしまうとまったく新しく一日を始めて行ける人間でしたが、彼女には、忍んで耐えた毎日だったことになります。そういえば先週、4月4日は、私たちの結婚38周年だったのです。彼女は、『わたしでなかったら、あなたにここまで添い遂げる女性はいなかったでしょうね!』と、平然として、かつまた確固たる自信をもって言い切るのに、私は反発できなくて、『そ、そう、その通り!』と言ってしまう、二人の38年目であります。

 『そろそろ結婚をしなくてはいけない!』ような雰囲気が、私のまわり一面に満ちていました。女子高に務めていましたから、『身をかためなければ!』と言う切実な迫りも感じていたのです。社長の娘も、大学や専門学校の講師も、そのほかにも数人の候補者がいました。でも、『誰でもいい!』わけではありません。それで、上の兄に任せたのです。その兄が紹介してくれたのが、今の妻でした。名も富みもない方の娘でした。後になって知るのですが、彼女は、島津家から徳川家に嫁いだ「篤姫」も、『あっ!』と驚くほどの家系だったようです。今の世では、『それが何なの?』と言われそうですが、頼朝の家来だと父が誇りに思っていた「鎌倉武士」の末裔などは、足元にも及ばないわけです。名も金もない人の娘を妻にした、私の好きな政治家の広田弘毅は、素晴らしい家庭を建設したのですが、当時の外務官僚としては、広田は異端児でした。ほとんどが、名家の娘を妻に迎えるのですが、『妻の口利きで出世したと言われるような者になりたくない!』と頑なに突っ張って、28のときに、七つ下の好いた女性を広田は娶ったのです。広田夫人は、刑死する夫に先立って、鵠沼の家で自死して果てます。やはり、この方は、富や名誉には目も向けない自由民権運動の志士の娘でした。

 「潔さ」を広田のうちに見て、感動される私ですが、『50年早く生まれた!』と彼は何度か漏らしたそうですが、激動の時局をまったく良心的に、誠実に、務めを全うして生きたのです。あの時代の舵取りに、不可欠な日本に天が備えられた逸材だったにちがいありません。その彼を陰で支えつづけた夫人があってこそ、広田が天職を全うして生きられたわけです。

『人がひとりでいるのはよくない。』

との諺が、結婚の最前提であるのですから、うーん、彼の結婚生活に大いに刺激されます。人の結婚に憧れるだけではなく、私たちの結婚生活に、子どもたちや孫たちが刺激されてほしいものです。そのために、家内には、もうしばらく「忍」の一字で添い続けてもらいたいものです。これって「和」を求める男の甘さとずるさでしょうか。

(写真は、新婚旅行で訪ねた「潮来」の「あやめ《旅猫旅日記》」です)

2009年4月2日木曜日

広田弘毅と麻生太郎


 少年期から青年期に、好きだった映画俳優は日本では鶴田浩二、アメリカではジェ-ムス・ディーン、女優だとのフランソワズ・アルヌール(フランス)、歌手ですとちあきなおみ、落語家ですと鈴々舎馬風(れいれいしゃばふう)、野球選手では与那嶺要、相撲取りですと琴ヶ浜、幕末の志士ですと高杉晋作、戦国時代の武将では明智光秀でした。それぞれに出色の人物だと思います。『好き!』と言うよりは、『印象的な人だった!』と言ったほうがいいかも知れません。ですから、政治家への関心は、時の総理大臣や文部大臣の名前を知っているくらいで、ほとんでありませんでした。

 ところが大人になって、一人の政治家に、強烈な感銘を受けたのです。それが、「広田弘毅」でした。この方は、私が青年期に憧れた銀幕に映し出された演技上の《英雄像》とはまったく違った型の人で、畏敬の念を覚えさせられてしまったのです。もし十代のころに、この広田弘毅を知っていたら、きっと政治家を志していたのではないでしょうか。広田は、福岡市の東公園の近くにあった石屋の子として、1878年に生まれています。当時、石工の子が高等教育を受けることなど考えられなかったのですが、成績が抜群に良かったこともあって、進学の道が開かれ、第一高等学校から東京帝国大学法学部政治学科を経て、外交官試験に合格するのです。外務官僚となり、1933年に外務大臣、1936年、第32代内閣総理大臣に就任しています。この方を、一言の漢字で言い表すなら「潔(いさぎよし)」だと思うのです。総理退任後に、再度、外務大臣に就任した当時の、「南京事件」の責を負われ、東京裁判で、A級戦争犯罪人として、死刑を求刑され、1948年12月23日に処刑されたのです。
 
 東京裁判の顛末を、ウイキペヂアは次のように記しています。『広田は公判では沈黙を貫いた。弁護人の一人(ジョージ山岡)が統帥権の独立の元では官僚は軍事に口を出せなかったことを弁明した際にも、広田はそれ について語ろうとしなかった。外国人の弁護士と日本人の弁護士がついて「このままあなたが黙ってると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言え ば重い刑になることはないんですから」としきりに勧め、同じA級戦犯の佐藤賢了も 同様に広田に無罪を主張するよう促していた。にもかかわらず東京裁判で広田が沈黙を守り続けたのは、天皇や自分と関わった周囲の人間に累が及ぶことを一番 心配していたからだとされる。広田は御前会議にも重臣会議にも出席しており、日中戦争が始まる時にも天皇を交えた話し合いがもたれていた。また広田の場合 は、裁判において軍部や近衛に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができた・・・・・広田は最終弁論を前に、弁護人を通じて「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という言葉を伝えている。また、判決が確定した後に広田に「残念でなりません」と語りかけてきた大島浩に対しては、「雷に打たれた様なものだ」と飄々とした表情で返答したという。』

 死に物狂いになって「言い訳」や「自己弁明」を繰り返し、責任回避や転嫁をした他のA級戦犯たちに比べて、「武士(もののふ)の魂」を宿した姿に、「潔さ」を覚えさせられてならないのです。掲げました写真は、求刑を泰然自若、真摯に聞かれる姿であります。辞世の句も詠むことも、残すこともなく、潔く責を負ったのであります。

 ああ、こういった日本の政治家こそ生き残られて、戦後の収拾に助言や忠告が欲しかったものです。広田弘毅の減刑嘆願に、かつての同僚・吉田茂が奔走したそうですが、その孫に当たる、麻生太郎総理もまた福岡県人です。支持率の低さにあえいでおりますが、ぜひとも日本の回生のために、日本と日本人が元気さを取り戻すために、粉骨砕身、鋭意努力で、国難に当たっていただきたいものです。字の読み間違で揚げ足取りをするような反抗勢力にめげずに、政に精進していただきたいのです。でも、おじいさんの真似をして、『バカヤロー!』だけは言わないでほしいですし、広田弘毅のように、「毅然」として、弁明などまったくしないで、歴史に名を残す優れた宰相でありますように!

 『・・・私たちが敬虔に、また、威厳を持って、平安で静かな一生を過ごすために・・』、選ばれ立てられた、一国の指導者のために、願い、感謝し、支持していく必要があるのではないでしょうか。そんなことを願う、春風駘蕩、百花繚乱の福州の卯月、四月であります。

(写真は、東京裁判で死刑判決を淡々として聞かれる広田弘毅元総理大臣です)

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。