2008年9月7日日曜日

赤とんぼ


 耳を澄ますと、もう秋の虫の音が聞こえてくるようになり、然(さ)しもの暑さも、『峠を越したかな?』と思うこのごろです。あの大歓声に湧いた北京オリンピック大会が終わってもなお、余韻のように同じ集合住宅の住民のみなさんの応援の『加油(ジィア・ヨウ)!』の声が、まだ耳の中に聞こえるようです。幾多の苦難の道を歩んでこられた中国のみなさんが、開国以来最大の国家的工程(プロジェクト)に思いを注がれたのです。国や国土や同朋を愛し、他国との関わりが深くされることを願って、この「奥運会(オリンピック大会)」の成功を祈って来られたわけです。出場した選手たちへの応援は、天を突くかのようでした。そのせいでしょうか、素晴らしい成績をあげ、大会自体が成功裡に収束したことを、隣国日本からやって来た私は、手放しでともに喜びたいのであります。『喜ぶ者とともに喜べ!』なのですから。

 さあ、次代を担う青少年のみなさん。この大会の成功を1つの跳躍台にされて、明日の中国のために、そしてアジアのために、さらに世界のために貢献していかれますように願っています。大きく夢を膨らませて、自信をもって明日に向かって、その夢を解き放ち、高く羽ばたいて行かれるように、祈念してやみません。今、その熱気や余韻の残る会場では、「パラリンピック」が行われております。注目度は強くはありませんが、世界中から参加された選手たちの健康と健闘を祈ってやみません。大会の運営に当たられるみなさんの上にも、激励を送ります。

 ボールを追いかけて走り、受けては投げてシュートしていた日々を思い返して、あの頃の青春の血の躍動がよみがえるかのようです。共に猛練習に励み、スタメンの背番号を競った仲間たちの数人が、すでに召されたことを聞くのですが、時の過ぎ行く早さには、改めて驚かされるのです。『少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず』とか、『いのち短し、恋せよ乙女・・』とか、『時間過了很快(時は素早く過ぎていく/中国語)』といった言葉が実感させられるのです。この「スポーツの秋」は、『する!』から『観る!』に代わってしまったようですが、まだまだ、ラケットを握ってバックハンドで打ち返してみたいと思わされてなりません。

 宵闇が迫って、虫の音を耳にしますと、何となく物寂しく感じるのですが、秋は感傷の季節だけではありません。「収穫の季節」なのですから、私たちの精神生活にも、それなりの実りが多いものであるように願いたいものです。与謝野鉄幹の人を恋うる歌」に、『・・・友を選ばば書を読みて・・』とあったのを思い出しますが、秋の夜長は、読書が似合うようです。また、「短歌」でも詠みたい気分もいたします。友人がよく歌っていた「惜別の歌」は、『別かれといえば  昔より  この人の世の  常なるを ・・・・』 、「初恋」は、『まだあげそめし  前髪の   林檎のもとに  見えしとき  前にさしたる 花櫛の  花ある君と  思いけり・・・』とあって、 七五調の詩なのです。歯切れがよくて、覚えやすく、メロディーにのりやすいので、何十年も前の歌が口から突いて出てしまいます。



 でも何といっても、「赤とんぼ」が一番懐かしいのですが、みなさんの「思い出の歌」は何でしょうか。三木露風は、『夕焼け小焼けの  赤とんぼ  負われてみたのは  いつの日か  十五で姉やは・・・』と詠んでいます。赤とんぼの身になって、怖いお兄さんに「追われて見た」とばかり思っていたのですが、実は、お姉さんに「負われて見た」んですね。私には、おんぶしてくれた姉はいませんでしたが、ちょっかいを出して、その仕返しに叩かれたり蹴られた兄がいました。その兄とは、一緒にアケビをとったり川遊びをしたりもしました。夜の帳が下りる頃まで遊んでいたあの頃を、思い出させる極めつけの懐かしい秋の歌は、やはり「赤とんぼ」でしょうか。

 声援や歓声のやんだ今、福州の町にも、赤とんぼが、そろそろ飛び始めるのでしょうか。きっと、それを見付けたら、『夕焼け小焼けの 赤とんぼ 負われてみたのは いつの日か  十五で姉やは・・・』と歌いだすことでしょう。

(写真は、フォト・ライブラリーhttp://www.photolibrary.jp/service/calc_size.cgi?id=527&size=2、絵は、http://momo-mid.com/mu_title/i_akatonbo.htmの「挿絵」です)

2008年8月26日火曜日

愚直さの勧め


 「偏屈さ」とか「愚直さ」と言ったことが、時代の動向傾向に逆流するように思われています。こう言った言葉は、明治や大正、さらには昭和一桁世代を匂わせる、かび臭い遺物だとでも思われているのでしょうか。それで、『昔にこだわり過ぎていて、進歩のない証拠だ!』と言って、若者たちに嫌われるのです。確かに、昔は時間の動きが緩やかでした。江戸から京都に旅をしても、自動車も新幹線もなかったのですから、歩くか、裕福な人が籠や馬や舟に乗るかだったわけですから、人の動きものんびり、ゆったりとしていたことになります。時間も人の動きも緩慢なことは、急かされませんので、かえって観察眼は鋭かったのではないでしょうか。

 芭蕉が、「奥の細道」に紀行文を記していますが、歩行者ならではの観察眼が、そこに記されています。実に緻密に景色や心の動きを眺めてて取っています。新潟の上越に行きました時、佐渡に目を向けて、芭蕉の読んだ俳句、『荒海や佐渡によことう天の川』を思い出していました。そんな発想は、何処から来るのだろうかと思うこと仕切りでした。俳聖と呼ばれる人でなければ、表現し得ないに違いありません。別な意味では、時間が、のたりのたりと流れていた時代の産物なのかも知れません。



 これまで、どの道の達人も、滅入る様な、長い下積み時代を過ごさなければなりませんでした。仕事場の片付けだとか、明日の準備だとか、先輩たちの下仕事をしなければならない時代がありました。その積み上げられた、無駄のような時間や作業の間に、培われた何かが、そういった達人たちの高い質を作り上げてきたのです。鰻職人は、『串差し何年!』と言った時代を経て、初めて焼き職人になれるのだと言われてきました。後輩いじめのように取る方がいますが、『たかが鰻、されど鰻!』なのです。その道その道に、練達者や玄人(くろうと)に至る道は遠くて、険しいわけです。 ところが現代は、「促成栽培」のもやしのように、一夜漬けの漬物のように、瞬時のうちに大成してしまう人がいます。松下幸之助や本田宗一郎のように、研鑽と土を這うような努力によって、町の並みの店主から身を起こしたのとは全く違うのです。そういった彼らの「愚直な努力」、「偏屈なこだわり」を、『無駄だ!』と退けてしまうのです。数秒の間に、一人のサラリーマンの一生涯の収入の何百倍もの資金を手に入れてしまうわけです。

 日本の社会を安全に支えてきたのが、『愚直の努力です!』と、以前、畑村洋太郎さんがラジオで言っていました。小学校や中学を出て、生涯かけて、単純な作業をし続けてきた方々の、「愚直の努力」が、事故や災 害や失敗を最小限にとどめて来たのです。そうして来た彼らが職場から去って行く中で、大きな人災事故が発生しているのだそうです。 高学歴と促成で養成された現場が、どうしても伝統的なやり方、愚直の努力を邪魔者扱いしたのです。毎日の洗浄作業や点検が、二日に一度、一週間に一度に減らされてきました。そういった間引き作業は、必ず結果を生むのです。何十年かけて築き上げてきた看板が、一日にして傷つき、汚され、壊されてしまい、消滅してしまうのです。学校に行っていました毎夏、牛乳工場でアルバイトをさせてもらいました。『のどが渇いたら、どの牛乳も飲んでいい。ただビンは割らないで!』と言う真夏の作業でした。その時の栄養補給が、結構頑丈な体を作ってくれたのではないかと感謝しているのですが。その会社名が業界から消えてしまいました。入れてはもらえなかったでしょうけど一時は就職を考えたほどの大企業だったのです。


 

 手間隙のかかる基礎作り、日常のたゆまぬ努力、こういった「愚直さ」は、一度、『不要!』とされたら、もう回復されることは難しいのでしょう。ところが最近聞いた話ですと、日本には聖徳太子の時代に起こされた企業が、同じ社名で、今日でもなお存続していると言うのです。1400年を誇る「金剛組」という寺社建設の企業です。これほど長い歴史を持つ企業が現存すると言うことは、他の国にはまったく見られないことなのだそうです。いわゆる「老舗(しにせ)」と言われる企業です。日本の製品が、世界市場を独占してきた背景がここにあるのではないでしょうか。ちなみに、「愚直」を辞書で調べますと、『正直すぎて気の利かないこと(さま)。馬鹿正直』とありました(大辞林)。さあ残る人生を、『百まで生きたい!』と思いますので、もう40年、馬鹿正直に生きて行くことにしましょう。飛行機に乗るより電車、車に乗るよりは自転車、自転車に乗るよりは歩き、そういったのんびりした生き方をしたら、今まで見えなかったことが見え始めてくるのではないでしょうか。でも時間だけは矢のように過ぎて行ってしまいますが。

(写真は、鰻職人・江口良二さんhttp://kanesue-saga.jp/?page=14、中は、芭蕉の「奥の細道」の旅程図、http://www013.upp.so-net.ne.jp/gauss/basyou1.htm#kosu、下は、江戸時代の「桶職人」です)

 

2008年8月24日日曜日

『過去は変えられないが、未来は私たちの手の中にある』


 辞書で「卑屈」を調べると、『必要以上に自分をいやしめて、他にへつらうこと。おどおどしていていじけていること(大辞林)』とあります。一方、「謙遜」は、『自分の能力・価値を低く評価すること。控え目に振舞うこと(同)』とあります。大東亜戦争後の日本人を評して、『卑屈になってしまった!』と言われる方があります。すっかり反省し、しっかり謝罪したのなら、もう言い訳はしないし、繰り返さないことです。60年以上も、武力によって他国を侵略しなかったのですから、反省と謝罪は本物だと、世界中から評価されております。だったら、過去に拘泥しないで、すっくと頭を上げて、これから二度と再び過ちを犯すことなどないのですから、もっと積極的に、世界平和に貢献し続けていくべきなのです。最も被害を及ぼした隣国に対しては、謝罪をし、戦争後今日まで、経済的財政的援助と言うかたちで補償を積み上げてきております。その補償があって、いくつもの国の今日の経済的繁栄があるのですから。



 もう過去に怯えて、おどおどしなくていいのではないでしょうか。しっかりと詫びたのですから、必要以上に卑しめたり、へつらったりしないでいい時期を迎えているはずです。今、必要とされているのは、勤勉で、飽くことの無い技術革新に精出し、経済大国になった日本は、控え目に振舞うべきです。得た富を、もっと世界のあらゆる面の開発に還元し、環境上の必要のために地球規模の保全に貢献すべきではないでしょうか。儲けさせて頂いたのですから、その相手国に対して、あらゆる必要を丸抱えで覚えていくのは当然なことであります。

 私は父の世代の戦争責任を感じて、お隣の韓国や中国や東南アジア諸国との関わりについて、若い頃から考えてきました。それで、韓国語やインドネシア語を学ぼうとした時があったのです。ところが12年ほど前に、知人に誘われて中国の4都市を訪問する旅行をいたしました。その1つの街に行きました時に、『日本は中国と中国のみなさんに何をすることが出来ますか?』とお聞きしましたら、『お金が欲しいのではありません。よかったら中国に来てください!』と言われたのです。帰国しましてからの十数年,その語られた言葉がこだまのように思いの中に響き続けて参りました。米国人実業家から引き継ぎました事業に従事し、社会的な責任がもあって、それに励んでおりました。でも、六十を期して、第二の人生を始めたいとの願いが、ふつふつと湧き上がってきたのです。それは、退職後の片手間仕事ではなく、双六の上がりのように、自分の「人生の仕上げ」にしようと思い立ったのです。それで、『よし中国に行こう。中国語を学んで、その現地の言葉で、戦争責任をお詫びをしよう!』と決心して、2006年の夏に中国にやって来たのです。やって来まして、何度か、『ごめんなさい!』と過去を詫びる機会がありました。そうしますと一様に、『あの戦争はあなた責任ではありません。あなたが詫びることではありません!なぜならあなたには関係が無いからです!』と言われるのです。と言うことは、《過去のこと》にではなく、《これからの事》に、心の思いを向けるように促されたことになります。『謝罪を言葉ではなく、生きて証ししてみたらどうですか!』と言われた様でもありました。

 軍属として軍需産業の責任を担っていた父、その父の1つの働で爆撃機が製造され、多くの国々を空爆をしているのです。福州の街の隣の海沿いの町には、日本軍の飛行場があって、そこから飛び立った飛行機が、中国の多くの町々に爆弾を投下したのです。『この福州も空爆され、数百人の人命が奪われているのです!』と聞きました。その父の腰から出て、軍から支給される金品によって育てられた自分、と言う負い目を担っていたです。それとて、確かに私の責任ではないのですね。ですから、中国のみなさんから、『そんな過去に拘って生きる必要は無いのでは!』と言われたわけです。自分では謙遜のつもりでしたが、こちらのみなさんには「卑屈」に見えたのかも知れません。過去に怯え過ぎて、本末転倒して来たかも知れません。ノーベル平和賞作家のエリ・ウイーゼルと言う人が、次のように言っています。

 『過去は変えられないが、未来は私たちの手の中にある。無関心ではいけない。無関心が常に加害者を助ける』

とです。『変えられない過去よりも、関わることの出来る未来のことに目を!』と言っているです。



 過去に拘らない中国や韓国の若者の驚くべき活躍に目を見張った、この2週間でした。プロ野球選手で編成した日本の「数十億円集団」よりも、韓国チームのほうが、踏ん張りを見せ、実力以上の力を出し切ったのは、過去をばねにして培った底力だったに違いありません。陸上競技のスタートラインに並んだ国同士が、ゴールに向かってひたむきに走るように、勝つためではなく、次の世代に夢を繋ぐために、友情の絆でしっかりと結びつき、助け合い刺激し合って、明日のアジアを築き上げていって欲しいと思うのです。もう観客席に場所を移された世代の私たちもできることがあるのです。だったら、『平和や友好に貢献していきたい!』と心から願いたいのであります。そのためにも、しっかりと歴史を踏まえる必要も感じさせられております。まだまだ、すべき事と機会、学ぶべきことが多くありますから、残された気力と願いのある間に実行したいものです。オリンピック北京大会の「閉幕式」のテレビ鑑賞に、また誘ってくださった友人の好意に感謝しながら。


2008年8月23日土曜日

若い力に感動されられて

 

 オリンピックの北京大会が、もう明日は「閉幕式」になります。無事に終わりそうですから、胸をなぜ下ろしているところです。大好きになった福州に来て1つだけ残念だったのは、天津にいたら、競技観戦の機会があったかも知れないからなのです。昨年、天津の学校で教えてくれた先生たちが、福州行きに反対した1つの理由は、オリンピックから遠のくことだったのです。でも、北京の熱気は、夜遅くまでテレビ観戦をしているアパートの住民の『中国加油!』の掛け声と、『アッツ・・・ウッツ!』の叫び声で、十二分に感じることが出来ました。国を挙げて、こういった愛する自分たちの国のチームの活躍を熱烈に応援することは、開国以来始めてのことだったに違いありません。夜遅くまで、テレビで応援する隣人たちの祖国愛は、日本チームを応援した私のうちにも宿っているのです。ですが、自分の国が勝っこと、メダルを多く獲得するようにと願うのではありません。感動の足りない現代社会で、心を振るわせてくれる「スポーツマン・シップ」が観たかったのです。だから、どうしても『北京大会が成功裡に終わって欲しい!』と、心から願ったのです。

 全競技に、若い力の躍動が惜しみなく注ぎ出されて、勝つ者もあり、負ける者もある勝負の世界で、素晴らしいドラマを見るような場面がたくさんあったのではないでしょうか。若さっていいですね!あんな時代が自分にもあったことを思い出して、心を踊らせられるような気持ちにされてしまいました。勝てたのに負ける、負けるだろうと予想していたのに勝つ、そう言った番狂わせがあるので、スポーツには醍醐味があるようですね。「圧力(ヤー・リイ)」、精神的なプレッシャーが選手を押しつぶしたり、まったく圧力を感じないで自然体で競技に臨んだり、さまざまなのがいいですね。あの緊張感と弛緩、あの明るさと暗さ、あの笑いと涙、何ともいえないですね。


 

 今回、しっかり観戦したのが、日本と中国との女子サッカー(足球・・ズウ・チュウ)戦でした。日本チームの下向きなプレーに感動しました。正確なパスワークがあり、球への執着の強さがあり、相手のゴールへの執拗な攻めが見られたからです。監督がよかったのかも知れません。聞くところによりますと、佐々木監督は、「綾小路きみまろ」のCDを聞かせて、緊張を解くために苦心をしたのだそうです。勝つための技術指導だけではなく、心の世話や、「和」を大切にしたことになります。『監督と選手とが心を1つにしているな!』と言うのが強烈な印象でした。なぜ女子サッカー贔屓(ひいき)なのかといいますと、昨年、この「なでしこチーム」が、中国と戦って負けたときに、矢のようなブーイングや罵声を浴びたのもかかわらず、『謝謝!ありがとう!中国』の横断幕で、相手チームと観衆とに感謝を言い表したからです。これって出来るようで、なかなか出来ないことですね。アメリカに負けはしたのですが、爽やかな試合振りに、忘れかけていたスポーツの心が蘇させられ、何だか若くされたように感じてしまいました。



 ところで、中国チームに「韓端(ハン・トアン)」と言う番をつけたフォワードがいるのですが、実に素晴らしい選手なのです。日本戦では、ゴールの機会がありませんでしたが、アルゼンチン戦だったでしょうか、ゴールを決めたときに、ユニフォームの下に着ていた、紅いハートを手書きしたTシャツを見せていました。それは四川地震の被災者のみなさんへ捧げる「愛のゴール」だったことを、表明していたのです。ああいった舞台で、そういった激励や愛を表現できることは凄いことですね。大連の出身で、中国チームの看板選手で、ポイントケッターでもあります。



 勝っても負けても、爽やかさが残るプレーに、心が漱がれ、熱くされ、感動させられたのです。50年前の夏、中学生だった私は、バスケットボールの合宿でしごかれていたのを思い出します。あの合宿に先輩が差し入れしてくれて、毎食後に食べた、夏みかんの《酸っぱさ》が口の中から湧き上がってくるように感じられるほどです。実に、『酸っぱい(!?)の多い青春』でした。


(写真は、『謝謝!』の日本女子チーム、下は、中国チームの韓瑞選手です)



2008年8月22日金曜日

幾夏を越えて


 台風接近の海で泳いだことのある方は、よくご存知だと思いますが、寄せてくる波が引いて行く時の強さは想像できないほどの強さなのです。その引き潮が強くて浜に戻ろうとするのですが、足元の砂をさらってしまいます。どんなにしても波の引いて行く力のほうが勝っているのです。湯河原の吉浜海岸で、『もう駄目かな!』と、死を覚悟したことがありました。引くだけではなく波の中に、どんでん返しにひっくり返されたからです。アップアップしていたときに、不思議な波にのせてもらって、スーッと浜に持ってってもらって、九死に一生を得ことがありました。16のでした。怖さ知らずで、遊泳禁止の海に飛び込んだのです。ああいった恐怖を何度か経験して、人間の脆さを知らされてきました。ところで、の寸前で押し戻してくれたあの「波」は何だったのでしょうか。


 

 私の二つ違いの弟が、自分の母校で、長く体育教師をして来ています。もう20年以上前になりますが、生徒と卒業生を引率して、千葉の海岸近くで合宿をしていました。合宿の中休みだったのでしょうか、その彼らを連れて、海岸の波打ち際で遊んでいたところ、折からの台風の影響で、大きな波に3人がさらわれてしまったのです。とっさに彼は海に飛び込んで、一人を連れ戻しました。この様子を見ていた漁師さんたちからは、二重遭難の危険性があるから、どんなに必要や責任を感じても、『二度と再び海に入ってはいけない!』と制止されたのですが、その手を振り切って、ヤットのことで二人目を救出したのです。教師の責任感からの行動だったに違いありません。『もう一人!』と願ったのですが、体力の限界と、猟師たちに羽交い絞めにされて阻止されて、泣き喚きながら海に入ろうとしたのですが、やめざるをえませんでした。結局、もう一人を救出することが出来なかったのです。その晩、彼は広い浜を行ったりきたりして、教え子の安否を気遣ったのですが、徒労でした。翌日、事故のあった浜から、かなり離れた浜に、教え子が亡くなって打ち上げられていたのです。それ以来、この事故の責任を感じたのでしょうか、期するするところあって、ヒゲを生やし始めたのです。いまだに、そのままですが、最近はだいぶ白いものが目立ってきております。




 あの事故の後、毎年夏になると、彼はあの浜に出かけて行っていました。信条上、供養のためではなく、二度と起きて欲しくないとの願いを込めて、思いを新たにし忘れないように訪ねていたのだと思います。今でも続けているのでしょうか。引率教師としては、実につらい断腸の思いの経験だったようです。大学で教える機会も何度もありましたが、彼は頑なに東京都下にある幼稚部から帰国子女コースまである、いわゆる一環校、しかも母校に拘泥してきているのです。実は、あの海難事故ですが、二番目の生徒を救出したとき、疲労困憊の極みにあった彼には、生徒を引いて浜に戻る体力は尽き果てていました。気力だけの行動だったようです。しかし、そんな彼と生徒のために、1つの大きな波が二人を、スーッと岸辺にまで運んでくれたのだそうです。あり得ないことだったのです。海の中には、地上の道路のような潮の流れがあって、「みを」とも呼ばれているそうです。それに入ったら、どんなに巧みな水泳の指導員でも練達した漁師でも、脱出は不可能なのだそうです。そんな危険な海、しかも台風接近の悪条件下で、奇跡的に助けられたのです。死の瀬戸際で、彼と生徒のための、天からの助けだとしか考えられません。そういったことって、あるのですね。その彼が、今は母校の管理職になっています。

 人生には、思いもしなかったことが起こります。その起きたことに適切に対処し、責任ある行動をとることが求められるのです。そう行為する時に、想像を絶した神秘的な援助があることになります。夏は楽しかった思い出も、辛かった思い出も数多くあります。幾夏を越えて、私の弟は、この2008年の行く夏を、どのような思いで見送っているのでしょうか。人生短し!

(写真は、「太平洋の日の出」http://www.greenspace.info/diary/2007/04/post_40.htmlから、下は、アジアの中の「海洋国家」日本です)

追記(8月30日)・・・このブログを読んだ弟から返事がありました。水難事故は、33年前の8月30日だったそうです。今でも千葉県・白子海岸に、毎年出かけているとのことです。今日は、その8月30日、彼にとっては、いまだに忘れられない日のようです。


2008年8月17日日曜日

稲妻と雷鳴の一大絵巻



 都都逸でしょうか、『雷さんは粋な方だよ・・』と言う歌いだしの歌詞を聞いた覚えがあるのですが、日本で聞いた雷鳴、見た雷光、濡れた雷雨は、「粋」に感じることが出来るかも知れません。十数年前になりますが、新潟に参りましたときに、五月でしたが、にわかに空が薄暗くなったかと思うと、『ピッカッツ!』と稲妻が日本海の上に走ったのです。すぐに『ゴロゴロッツ!』と雷鳴が轟いて、夕立になりました。『弁当忘れても、傘忘れるな!』と言うことわざがあるほど、越後地方の海岸線は雨が多いところだと聞きました。関東平野の西にある町で育った私にとっては、日本海側の雷体験は初めてのことで、より男性的で激しいのに驚かされたのです。  ところが、昨年、福建省の福州に参りましてから、二度目の夏を過ごして感じる1つのことは、こちらの「雷」が尋常ではないと言うことです。《轟き渡る》と表現するのが一番よいのではないかと思うのですが、腹の底、腎臓でしょうか、そこに響いてくるような大雷鳴なのです。西から東に、南から北に縦横に鳴り続けて駆け渡るかのようです。まるで音が綱渡りをしているような音響なのです。大きな空全体が大太鼓でもあるかのようなすさまじい音をたてていきます。雷光の稲光も半端ではないのです。雷が、背中にいくつもの太鼓を背負いながら、小さな鼓を打っている光景など、幼稚園の絵本の中のことです。エベレストほどの背丈のある大男が、青海湖かカスピ海ほどの太鼓を、ヒマラヤ杉で連打しているような大音響ではないかと思わされました。

 夕べは眠るのを忘れて、ガラス窓から空を見上げて、雷の大演奏に聞き入り、瞬間にあたり一面を照らし出す装飾のような雷光に見入ってしまいました。あの演出の素晴らしかった「北京オリンピック・開幕式」は、中国の英知の粋を傾けたものでありましたが、昨晩の「雷演奏会」は、太古からの自然の演出でありました。6尺に満たない背の私が、芥子粒ほど、蚤ほどに感じさせられるほどの一時で、天を仰いだまま、平伏せざるをえませんでした。
 




 そんな夜空を見上げながら考えていたのですが、こういった人間では抗しきれない自然の力の前に、数千年の時を過ごしてきた中国のみなさんの「強さ」を感じたのです。ここでは雨の降る量だって半端ではありません。寒さも暑さも、四季の移り変わりの鮮やかな箱庭のような日本の自然の厳しさとは比べられないのではないでしょうか。照れば飢饉、降れば洪水、揺れれば大地震、自然に抗し切れない、人の弱さや限界を知らされて来たのでしょう。蒔いた種を刈り取ることが出来ないで、全部を持って行かれても、『来年は大丈夫だろう!』と、明日に目を向けて、何もない中を地にへばりついて生きてきたのでしょう。『クヨクヨしない大らかさ!』、これがこの2年、ここ中国に来て、中国のみなさんから感じていることであります。収穫期に、兵役にかり出され、畑を戦場にされ、火で焼かれ、収穫物を奪われ、その繰り返しの歴史だったのではないでしょうか。新しい土地に活路を見い出して、一家で一族で移住して来たのでしょう。無くなった物に
ではなく、残された命や物や家族に目を向けて、やり直して生き続けてきたに違いありません。

 

 雷鳴の轟きを聞き、稲光に驚かされ、雨脚の強さの一大絵巻に目を見張りながら、中国のみなさんの「懐の大きさ」、「クヨクヨしない逞しい生き方」、困ったときは互いに助け合い、励まし合う「仲間意識」、そういったものを感じさせられた、昨晩でした。こういった人々のうちに流れている血が、自分のうちにも流れているのだと、改めて感じさせられもしました。

(写真は、「東京・大手町から秋葉原方面に見えた雷光(2008年8月MSNニュース)」、中は、米コロラド・教育サイトhttp://ccc.atmos.colostate.edu/%7Ehail/cool/lightning/pages/lightning7-7-2001.htmから、下は、近所の高層アパート建設現場で炎天下に働くおじさん


2008年8月16日土曜日

お腹ではなく、心が満たされるテーブル


 結婚祝いに頂いた物が、たくさんありました。多くの人たちが、私と家内の新生活を祝福してくださったのです。それらの中で、最後まで残った物が1つありました。28年ほど前の明け方に、当時住んでいたマンションの上階で火災が起きました。娘たちが、よく上がりこんでは、お菓子をもらっては遊んでいた若いご婦人の家が 出火、その事故で彼女が亡くなられたのです。そのもらい火と消火活動の放水とで、階下の我が家のほとんどの物が消失し、水浸しになり捨ててしまいました。爆発の大音響と窓の破裂と火の中から、3人の子どもたちが、奇跡的に守られました。家内のお腹には間もなく生まれようとしていた次男もいたのです。その火と水とをくぐって、残された物の1つが、その「テーブル」でした。それは、まだ十分に使えたのですが、一昨年の夏、こちらに参ります前に、思い出とともに涙ながらに捨ててしまいました。  

 子供が4人いましたし、一時は、その他に3~4人の方が同居していましたから、このテーブルの上に、ベニヤの厚板にニスを塗って加工した物を載せて、それを、みんなで囲んで食事をし、談笑してきたのです。10人は座れました。イスだけは代替わりをしましたが、 テーブルは35年も前の高級品でしたから、実に堅牢だったのです。


 捨てる決断をした時、そのテーブルを囲んだ人たちの顔を思い出したのです。ある時、自殺 しよう決心して、私たちの家の前を通りかかった方が、ふと目を上げると灯がついて、中から歌が聞こえたので、誘われるように玄関をノックされたのです。迎え入れたのは若い女性で、事情を知った家内と私は、一緒に住むことを勧めたのです。それを願った彼女は、私たちとの共同生活で、日に日に元気になっていか れ、市内の愛児園の手伝いをするようになられました。大変に気の効く方で、その園では喜ばれたのです。その後、数年私たちと一緒に生活をしたのです。すっかり元気になられて、愛知の実家に帰って行かれました。彼女も、私の家族とそのテーブルを共に囲んだ一人でした。ある時、非行を犯して鑑別所にいた少年を 引き取りました。彼と彼のお姉さんも、しばらくそのテーブルを囲んだのです。シンナーの常習者で、子どもたちが怖がってしまったので、最後まで面倒をみられないままで終わった方たちでした。離婚を決意して相談に来た方も、お嬢さんのいじめで苦しまれて相談に来られた方も、お金を借り
に来た友人も、このテーブルに着いたと思います。 また私たちを激励に来てくれた、友人や母も兄も弟も、義母も義姉妹も義兄も、そのテーブルについたのを思い出します。  

 35年と言う年月は、実に長いものであります。私たちも、また多くの友人や知人の家に招かれて、彼らの家族と一緒にテーブルを囲ませていただきました。たびたびお招きくださった方が、静岡県下にいました。ご馳走はそれ程ではなかたのですが、彼の家族と私の家族が共に、一つのテーブルを囲んだ時、何ともいえなく暖かかったのを思い出すのです。 彼らの語ることばで心が
いやされたり、振る舞いで励まされたり、勇気付けられたりした、祝福のあふれたテーブルでした。   

 この二月に帰国しました折に、そのアメリカ人実業家のご子息夫妻が、家内と私を招いてくれました。お父さんはすでに召されておりましたが、ご夫人は健在で、彼 と一緒に暮らしておいででした。そのテーブルのたたずまいもまた、お父さんの時代を髣髴とさせるものでした。お子さんたちはそれぞれに家庭を持たれておいでで、次男のテーブルは、簡素なものに代わっていました。そこに彼の夫人と二人のお子さんとお母さまが着き、彼の友人たちも同席していました。そこで動いている心の優しさともてなしとが、お父さんのテーブルと同じだったのです。時は過ぎ、世代は移り、人も変わります。でも、人をよくもてなす心を受け継がれた彼のテーブルも、多くの人が招かれ、心が癒され回復している祝福の場であることを知らされたのです。  




 今、家内と二人で囲む、借り物の小さな折り畳みのテーブルも、多くの友人たちを招き始めています。これに着かれるお一人お一人が、あの優しさに触れた 私たちのように、心が癒され生きていく勇気が与えられるようになって欲しいと心から願う、大稲妻と轟くような雷鳴と大雨の夜の明けた、静かな週末であります。


(写真は、多くの人と囲んだテーブルで、ある正月に家内が、帰ってくる子どもたちのために作った「おせち」がのっています。下は、福州の家で使っています借り物のテーブルです!)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。