2008年8月4日月曜日

独立を祝って開花した一輪の花


 『野の花のごとく生きなむ』と、私の恩師が、色紙の真ん中に書いてくれました。卒業ゼミの寄せ書きでした。寒い冬が過ぎて、春の到来を知らせてくれたのは、獄舎のコンクリートの窓格子の隙間から見えるわずかの土の中から、一輪の野の花だったそうです。治安維持法違反の容疑で収監されていた、囚われの身には、どんなに大きな慰めだったことでしょうか。その咲き出た花に、一縷の希望を繋いで生き延びて、戦後まもなく自由の身にされて、学究の世界に復帰されたのがA 先生でした。この方に教えられたのです。厳しい閉ざされた時代を否応なしに通される中で、名の知らない野の花は、『生きよ!』と、わが師を励ましてくれたのでしょうか。そとても重い述懐のことばでした。

 『ねえみんな、バラや向日葵の花のように華やかで艶やかでなくってもいい。誰にもほめられないで、見てももらえなくてもいい。天に向かってのびのびと咲いて、短い生涯を終える運命の野の花のように、みんなには生きて欲しいんだ!』と、恩師は言いたかったに違いないのです。   

 先月の中旬に、こちらに越した明くる日、裏に10坪ほどの庭があるのですが、その右の奥の隅に、土盛りをした花壇のような、ゴミ捨てのような土の中から、「歓迎」の思いを込めてでしょうか、一輪の花が咲き出したのです。何の花でしょうか。これまで1部屋の家に住んで、何かと不自由を感じていたのですが、友人の同僚が、貸してくださると言うことで引っ越すことが出来た家の庭の片隅の出来事でした。亜熱帯気候ですから、咲く花の色も強烈ですし、熱射を浴びながら咲くのですから、逞しいのが、こちらの花です。そんな花のように、福州の人々は、逞しく生きておいでです。どんなことが起こっても驚き騒がないで、実に飄々として、明日に希望を繋ぐことが上手なのでしょうか、クヨクヨしないのです。疲れれば、日陰のコンクリートの上にゴロリと横になって寝てしまうのです。午睡の習慣があるからです、体を横に出来るところなら、どこでも寝られるのです。初めて目撃した時には驚かされましたが。

  「明天的事明天再説バ(口扁に巴)」 、すべき事は、まず寝てしまうこと。起きたら起きた明日のことにして、やって来る日を、精一杯生きていこうと決めているのに違いありません。五十になって、子どもが自立して家を出て行ってしまったら、何を考えたのか、『老後をどう生きたらいいのでしょうか?』と心配を先取りする日本人を知っているのです。そういった方は、『こちらに来て見たらいい!』と思うこと仕切りです。ウツ病患者が3人に一人の日本にとって、ウツになりにくい事例が、ここ中国には五万とあります。『何をどう伝えたらいいのか?』、『こんなこと言ったらどう思われるか?』を考えてでないと言葉に出来ない私たちですが、こちらの方は、大声で思いに浮かんできたことを単刀直入に、しゃべり始めているのです。電車の中だろうが、バスの中だろうが、間に人がいても、どこでも当たりかまわず、しかも大声で話をしています。豊かな感情の表現能力、と評価したら、それは迷惑ではありますが、話し手にとってはいいことに違いありません。クヨクヨ考え込んでいる人って、ほとんど見たことがないほどです。こんなに大らかな国民性は、日本では見たことがありません。数千年の間、紆余曲折、さまざまな経験を強いられてきて、開かれる時代や環境の中で、上手に順応されて生きていくことを培われた国民と言えるのではないでしょうか。

 精神的に追い詰められて、知人を頼って、こちらに来られた日本人女性が、『ここって私に合っているんです!』と言われて、水を得た魚のように生きておられるのを、何人も見かけています。周りに気兼ねしなくってもすむからです。小さなことにこだわらないですむのです。思った様に、感じた通りに生きれるのです。人の顔色なんか窺わなくっても構いません。日本に比べて、比べられない自由があることになります。旧日本軍の新兵が上官命令で、「刺突(試し切り)」をさせられて、実際に中国の方を切ってしまいました。拒めなかったからです。その兵隊が、2005年に、山西省のある村を訪問しました。殺されるか袋叩きにあうかを覚悟したのですが、生き残った旧解放軍兵士に、『昔の日本軍を憎んでいるのであって、決して今の日本人とか、日本人、あなたを憎んでいるわけではない!』と言われて、驚きを新たにされています。恨みや憎しみを過去のこととして片付け、そういう風に言い表せるのが、この中国のみなさんなのです。心の広さなのでしょうか、その寛容さは敬服の至りで、驚愕の極みであります。

 そんな広く豊かな心をもてたら、きっと「野の花」のようにも生きていけるに違いありません。先週、次男が、『会社を辞めました!』と家族一人一人に報告してきました。培ってきたノウハウを活かして独立を決断したからです。その知らせを聞いた翌朝、また一輪、裏庭の片隅で例の花が咲きました。息子の独立を祝うかのような開花だと思わされたのです。『誰にもほめられないでもいいから、よい花を咲かせて、誰かに喜ばれる花となるように!』と願う、福州の空の下の父であります。 

(写真は、次男の独立宣言の明くる朝に、裏の庭の隅で咲いた一輪の花です)



2008年7月29日火曜日

方向転換

 高校生の時、よく小説を読みました。言葉に興味があって、難しい言葉や言い回し方を知りたったからです。とくに田宮虎彦の「足摺岬」、尾崎士郎の「人生劇場」、川端康成の「伊豆の踊り子」などは、言葉だけではなく、父の世代(昭和初期)の学生の生き方を知らせてくれたのを思い出します。読み進むうちに、父が青年期を過ごした時代の手がかりをつかむことができ、そういった時代に学んでいた父にダブらせて読むことができたのです。もちろん父は文学青年ではなったのですが、それでも父の書庫の中には文学作品もありました。これらの作品に描かれている時代は、世情が不安で、言い知れない深みに落ち込んでいくかのようだったに違いありません。男同士の友情が破綻し、男女の恋や愛も悶着を起こし、先の読めない混沌とした様子が描かれていて、知らない世界に興味津津だったと思います。

 自分の内側にも、たぎるような性欲が突き上げ、成功的に生きていきたいとの名誉心も噴き出し、物欲にも駆られ始めていたのです。親離れを決め込んで、外の世界に出て行っては、恋愛や友情の難しさに直面していました。時には、頭をかかえ込むこともあったのです。ですから、親との距離が大きくなるにつれて、『生きることって容易じゃあないし、大変なんだ!』と思わされたようです。

 昭和初期の学生の、恋しては愛に破れ、友を得ては訣別し、挫折し堕落して奈落に向かって落ち込んでしまう、そんな小説の中の青春に興味をなくしてしまいました。この田宮も川端も、晩年には自死しています。太宰も芥川も田中英光も、そうでした。早稲田や東大で文学をやって、物書きにでもなっていたら、彼らのような結末を迎えたかも知れませんね。小説家に、自死する人が多いのには、いまさらながら驚かされるのですが。ペンで思い描く架空の世界との差を埋めることが出来ないで、酒や女や薬物に踊らされれたり、また現実に押しつぶされて死への逃避行をたどるのでしょうか。

 それで、高校生活を描いた「草を刈る娘」、「若い人」や「青い山脈」などの石坂洋次郎作品に興味を向けたのです。そのほとんどを、くすくす笑いながら読みました。手の届きそうな太陽がいっぱいの空があって、空気も水も食べ物も人間も、清新で新鮮で闊達で屈託なく、福福満満たる大らかな世界がありました。何か消えかけていた希望の灯を、自分の青春にともし直すことができたかのようでした。でも小説の世界のようには、明るくも楽しくない現実の生活の中で、矢張り悶々として学生生活を送っていたのです。

  父の家の平穏さの中で、明るく楽しく楽観的に生きられていた時代を終えて、覆いの外の世界に向かって、『自立しなければ!』と自らを追い立てていました。 そこに待ち受けているのは、現実の過酷さだったのにです。一日一日、堕落していくような日を重ねていったんだろうと思います。『あ んな大人にはならないぞ!』と決めていたのに、あのおじさんたちのようになっていく自分に気付いて、まるで深い枯れ井戸の底から、わずかに見える青空を仰 いでいるようでした。裕次郎やジェームス・ディーンや高倉健の映画を観ていましたが、飲む酒の量が増え、吸うタバコの本数が多くなり、表通りから、場末の 暗がりをさまよい歩き始めていました。卒業し社会人となってからは、地方都市への出張が多くなり、接待や振舞われる機会が多くなり、昼間の仕事と夜の遊び との一対の生活が、矛盾を感じることなく進んでいました。でも心の空しさ、満たされない気持ちは、飲んで騒いで遊んでも埋められなかったのです。


 そんな頃、鹿児島への出張があって、当時上の兄がいた福岡の久留米に途中下車しました。振り返りますと、この街(実は義母の出身地でもあったのです)が、人生の大きな転換点となったのです。兄の行き方が眼を見張るように変わっていたのに驚き、その驚きが自分の生き方を変え始めようとしていたからです。お参りにではなかったのですが、大宰府の天満宮にも行って見たのですが, 学問の神様と言われる菅原道真によってではなく、ものすごく大きな手が背中を押して、「これが道だ、これを歩め」と言われているようでした。地獄の門の手前で、押し返されたかのような方向転換でした。久留米、何時か、また行ってみた街であります。

(写真は、上は、土佐清水市のHPの「足摺岬」、下は久留米市HPの「筑後川」です)


2008年7月27日日曜日

花火師

 

 今年の2月、関西空港発福州行きの深セン航空の定期便に乗って中国に戻りました。長楽市の国際飛行場が間近かになった頃には、もう夜の帳が下りていましたが、眼下に花火が小さく昇って来るのを眼にしたのです。春節明けを祝って打ち上げられたものでした。

 中国に来て気づいた1つのことは、中国のみなさんが「花火好き」だと言うことです。火薬は、すでに唐の時代に中国で発明されていたのですから、当然のことでしょうか。結婚式や葬儀のおりなど、日常の慶弔時に、この花火は欠かせないようです。先日も、住所変更手続きで公安警察に行く途中、道筋に明るい色彩の花輪が並んでいたのです。そうしましたら葬儀の隊列に出くわしたのです。トランペットがあり、シンバルンもあり、悲しい雰囲気を吹き飛ばすかのようでした。みなさんは、日本のような黒尽くめではなく、普段着に真っ赤な帯を締めて帰って来られ、葬送の後のあの暗い悲しみが見られませんでした(埋葬に行かれるときには白の帯を締めるのだそうです)。

 遺影を見ましたら、まだ若い働き盛りの男性でした。もちろんご遺族の悲嘆は測り知れないものがおありと思うのですが。このときは花火はなく、真っ赤な爆竹が火花と赤い包み紙を放ちながら、爆音とともに炸裂していました。これもまた、死霊を追い払うのでしょうか、悲しみを追いやるのでしょうか、日本では見られない光景でした。きっと、その夜にで花火も打ち上げられたことでしょう。

 私は、尾崎士郎の「人生劇場・残侠篇」を読んだとき、任侠の世界から足を洗った吉良常が、中国大陸の上海で花火を上げる「花火師」になったくだりを読んだのです。高校2年でしたから16歳ほどだったでしょうか。ヤクザには憧れませんでしたが、その吉良常の「花火師」に憧れてしまったのです。日本人も夏には、花火を景気よく上げて暑気払いをする風習がありますが、子どものころから幾度となく多摩川の花火を観てきました。『いつか世界に出て行って、日本の繊細な仕掛けの綺麗な花火を大空に打ち上げたてみたい!』と思ったわけです。気が多くておっちょこちょいの私でしたから、本気でそう考え始めたのですが、結局、志を遂げることがなく、近くのおもちゃ屋で買ってきた線香花火を、丸くなって、うつむきながら小さな火花を楽しむだけの、四人の子どもたちの普通のお父さんで終わってしまいました。


 

 あの小説の中で、花火師・吉良常が、花火の事故で片腕をなくす場面が描かれていました。命知らずの私は、そんなに危険な職業選択を恐れなかったのです。男が命をかけるには申し分ない仕事ですし、潔い仕事人なのだと思わされていたからです。まあ、さまざまな夢を見ては、その実現に敗れて、今日を迎えたのですが、夢に見なかったような人生の展開に身をゆだねて、「四馬路」と言う繁華街で有名な上海から南に、数百キロの「福州」にいるわが身の不思議さを、改めて見つめ直している真夏であります。

(写真は、「線香花火」〒444-0834 愛知県岡崎市柱町字上荒子25番地1  (株)太田煙火製造所のHPから、「諏訪湖花火」は、大会のHPからです)

2008年7月26日土曜日

鰻、ドリアン、マンゴスチンの美味しさ!


  今日は七月の最後の土曜日です。予想最高気温35度、『鍋の中の餃子の様な!』福州です(明日は37度だそうです!)。今、昼食をすませました。何を食べたかと言いますと、三日遅れの「鰻の蒲焼」でした。24日が「土用の丑の日」で、日本人の七月の夏の定番・鰻を食する日でした。今年は、産地偽装の影響で、惨めで受難の鰻の話題で、ニュースは持ちきりでしたが、異国の地で、「日式鰻」が近くのスーパーで売っていたのです。国産でした。もちろん中国のですが。行ったり来たり、手に取っては置いてを繰り返して、ちょっとした贅沢を許していただいて、思い切って買ったのです。あいにく「山椒」はありませんでしたが、どんぶりに温かなご飯をよそって、お湯で温めた真空パックの鰻を取り出してのせました。まさに「うな丼」、タレの加減も遜色ありませんでした。

 去年の2月に、次男が天津にいた私たちを訪ねて来てくれて、町の日本料理店に連れ出してくれました。そこで食べさせてくれたとき以来の鰻の昧でした。売れない鰻屋に相談を持ちかけられた平賀源内が、『「今日は土用、鰻の日」と言うのぼりを、店頭に出したらどうですか!』と勧めます。それに従ったのが、商売繁盛となり、今日の隆盛を導いたと聞いております。広告のキャッチフレーズとしては大成功だったわけです。あのスーパーには、のぼりなど上げられてなく、冷凍ケースの中で静かに買ってもらうのを待っているだけでしたが。



 実は、今日の贅沢は、それだけではなかったのです。香りでしょうか、臭いでしょうか、それに負けて買ってしまった物があります。「ドリアン(榴蓮リュウ・リエン)」です。『この臭いがたまらない!』と言われています。嫌いの人には、『こんな臭いものがあるか!』と思うのだそうです。その臭さゆえに、シンガポールでは、公共バスやホテルには持ち込みが禁止になっています。ところが好きな人には、『なんと美味しい香りだろうか!』と、意見を2つに大別してしまう臭い・香りなのです。今頃、日本のスーパーでは、輸入品ですから、1つ5000円ほどするでしょうか。今日買ったのは、中身を取り出して小分けのパックされた物でした。値段は32元でしたから、500円ほどになるでしょうか。美味しかった。家内は、ほんの少し食べただけでした。ドリアン大好きな私は、これまで店頭に見つけては横目でにらんで、素通りしていたのですが、今日、その限界を超えて買ってしまいました。久々に舌鼓を打ちつつ満足させてもらいました。

 どうしてでしょうか。今日は、もう1つの贅沢をしてしまいました。鎖国令が解かれたような自由がやって来たからでしょうか。福州の暑さが極め付けだからでしょうか。それとも財布の紐が緩んでしまったからでしょうか。きっと週末の開放感が、「マンゴスチン(山竹シャン・ジュウ)」も買わせたのだと思います。禁欲主義者ではないのですが、長女は、『生活を楽しんでいないよ!』と言います。『もっと快適さや便利さを求めて生活を楽しんだらいいよ!』と言ってくれます。その娘の勧めと、『無駄をしないで生きよう!』との思いとが、いつもせめぎ合うのです。今日は、娘に押し切られた感じがいたします。この「マンゴスチン」は、《果物の女王》と言われるほど美味でして、王様の「ドリアン」と一緒に食べないと片手落ちだったわけです。

 なんだか美味しい一日を過ごしています。それでもセミの鳴き声がやかましいし、小鳥もさえずりと言うのではなく、『暑くてたまらないよ!』と文句を言っているのか、だみ声に聞こえてきます。お腹の満足した私は、生きている素晴らしさを、また味あわせてもらった週末です。夕食後のデザートは、残った「ドリアン」になるだろうと、舌なめずりをしている暑気の中にも食欲を忘れない私であります。

(写真は、http://www.cleonfoods.com/s_durian_nama.htmlのHPからです。下の「芋虫」のような写真は、ドリアンから取り出した中身です!)

2008年7月22日火曜日

奥运会(aoyunhui)成功!


 ここ中国では、8月8日から24日まで行なわれる「北京オリンピック大会(奥林匹克aolinpike奥运会aoyunhui)」が、いよいよ近づいていております。1000キロ以上も離れた福州にいても、その盛り上がりの様を肌で感じることが出来ます。きっとサッカーと卓球の予選会場になっています天津にいましたら、いや増しに盛り上がっている様子に、じかにに触れることが出来たことだろうと思われます。その天津で、1年ほど住んでいたアパートの「紫金公寓」の七階の窓からは、夕日に輝く全天候型のサーッカー会場の銀翼が、目と鼻の先に見ることが出来ました。その1年は、競技場の周辺だけではなく、街中の道路網が整備され、宿舎になる巨大なホテルやアパートが建築中でした。グーグル・アースで映し出されるのは、だいぶ前の航空写真ですから、実際には、驚くほどの変化が今は見られることでしょう。その1年前は、大型トラックが行きかう砂埃の工事中でしたが、もう、すっかり整備されて見違えるほどに綺麗になっているはずです。



 東京でオリンピックが行われたのが、1964年でした。その大会会場になった東京は、見違えるように近代都市化されていく様子を、それ以前の5年間に見せておりました。戦争が終わった焼け跡から、奇跡のように起死回生し、その東京大会は、戦後の復興の驚くべき頂点、いわば敗戦の惨めさへの訣別、新しい日本への再出発だったのではないでしょうか。首都圏と関西圏が、新幹線で結ばれ、都内には高架の高速道路網が張り巡らされ、見る見るうちに別世界が出来上がっていく様子に驚かされたものです。それ以前の新宿や渋谷や池袋は、一歩路地裏に入ると、お世辞にも綺麗な街だとはいいかねました。それが見違えるほどに変わっていったのです。ハードな面での変化は、人の心のうちのソフトさにも大きな感化を及ぼしたのです。もう44年も時がたつのですから、驚かされます。



 そうしますと、この8月8日午後8時に開会式が行われる「北京大会」、2010年に開かれる「上海万博」、2012年でしたか、広東省広州で催される「アジア大会」、こういった国際行事を通して、中国の沿海部が大きく変化していくに違いありません。その変化と共に、内陸部もたちまちのうちに変えられていくに違いありません。さらには、中国の愛するみなさんの心の中に、驚くほどの自信と確信とが帰ってこられ、大きな飛躍と祝福のきっかけとなるに違いありません。

 かつて奈良・平安の時代の日本の青年たちが、遥かに憧れた文明と文化に秀でた中国ですし、つい昨日まで、学問を志すも者たちが、孔子や孟子や老子に学んだのですから、そういった思想と学問を誕生させた国家であり国民の末裔に、心からの激励を遅らせていただきます。確かに難しい時代を幾たびも越えてきて、出遅れた観は否めませんが、中国のみなさんの永い年月に培われた底力をもって、遅れを取り戻され、更なる変化を遂げていかれ、「アジアの輝く星」となっていかれることを心から願うものです。

 スポーツの祭典は、おもに青年たちが、その力を競う大会ですが、明日を担っていく彼らが、国の名誉を背に、正々堂々と競技して、素晴らしい成果を遂げられますように。体育会系の世界で汗と涙を流した青春の日々を思い出しながら、素晴らしくスポーツマン・シップが発揮されることを、心から願っています。そういった競技を、拍手と喝采とをもって応援する私たちも、その熱い真摯な息吹に触れさせていただき、大いに刺激されたいものです。

 開会式と閉会式の間に行われるすべての種目の競技が、勝ち負けだけではなく、平和で和やかな雰囲気があふれ、祝福のうちに楽しくに行なわれ、地球平和と国際友好とのために益するとことを祈念し、中国と中国の国民のみなさんにとって、大きな祝福の機会である、「北京オリンピック大会」のご成功を、衷心より願います。奥運会成功!

(写真は、北京市の北京大会のメインスタジアム「鳥巣」、.真ん中は「天津オリンピックサッカー場」です)


2008年7月17日木曜日

『私は百まで生きるつもりで、今を生きています!』


 福建省の省都・福州の街は東西に流れる「闽江(ミン・ジアング)」によって、南北に二分されています。北部は、この川と山岳部との間に広がった旧市街があり、その中心に、往時、時を報せた「鼓楼(グウ・ロウ)」があります。南部は、闽江の流れが二俣に分かれた中州に位置していて、私たちが住んでいる「仓(倉)山区(ツァンシャン)」があります。かつて、ここにはアメリカのミッションが建てた「協和学院」があって、中華人民共和国の建国後、その敷地と校舎を使って、福建師範大学が開学しています。このあたりは学園区といえるでしょうか、数多くの学校があって、この地域の一番繁華な地域は「学生街」です。週末にもなりますと、原宿や新宿や渋谷のような人通りがあって、学生たちであふれています。

 昨年7月、その学園区にある福建師範大学海外教育学院の宿舎に移り住んで1年が過ぎました。そこはホテルのツインルームで、厨房がありませんので、浴室と洗面所をかねた一室に、炊飯器や電気調理器を持ち込んで、手狭なところで自炊をしてまいりました。結構使いようで、まあまあの1年を過ごすことができたのです。契約が1年ということで、他の住宅を探していましたら、親しい友人の同僚の持ち家を貸してくださるということで、改装をしていただき、先週末入居することができました。この家は、大学の教員住宅棟の一室で、厨房と浴室と三間の3Kの間取りになっています。一階ですから、小さな庭まで付いております。太陽が入り込み、風も窓から窓へと吹き抜け、緑の木々もあふれるほどにあり、住環境としては静で落ち着いて快適なのが何よりです。

 その庭の片隅に1メートル立方ほどのレンガで囲われた花壇(!?)があります。ゴミなども捨てられてありますから、花壇と呼べるかどうかは疑問ですが。そのゴミの間から、一本の植物が立ち上がって、越した翌日の朝、綺麗な花を咲かせていました。どうも私たちの転居を歓迎してくれた開花に違いありません。何というな名の花かは分かりませんが、清楚で穏やかな感じがして大変慰められたのです。亜熱帯気候のただ中にあって、真紅やまっ黄色をした花々が咲き誇る中で、それは淡いピンクでした。

 昨秋、中華人民共和国の建国記念の晩餐会を、省政府が主催されたとき、招かれて列席させていただきました。そのとき、同じ学校の英文科を卒業され、4年ほど後輩の方と出会いました。話をしていましたら、共通の話題が出てきたこともあって、雰囲気にも似通ったところがあり、『○学の出身ですか?」と聞き合って、互いに『やはり!』と意気投合をしたのです。それ以来、お交わりをさせていただいたのですが、この方は2年間の「日本語教師」の奉仕を終えられ、先週の初めに日本に帰って行かれました。

 その彼が、「置き土産」のように、2度ほど散歩に誘ってくれました。この転居先の周辺です。暮れなずむ灯ともし頃、常々散歩をされて見つけられた公園や伝統ある大学やガジュマルの巨木などを案内してくださったのです。「胡同」という路地裏を通り抜けると、ガジュマロの古木が聳え立っていました。数百年(!?)の長きに亘って、この町を見下ろしてきたのでしょうか、逞しく枝葉と根を張り伸ばし、ヒゲか根のような物を枝から振り下げており、南国情緒を醸し出しておりました。晩年に出会った同窓生が、『私は百まで生きるつもりで、今を生きています!』と言われたことが、私への挑戦となって、『もう15、20年は生きたいのです!』と言い続けてきた私に、『百まで生きるぞ!』と考え直させてくれた友人です。宗旨は違うのですが、この町に建てられた「協和学院」と同系の学び舎で過ごした、彼との共通点が、なぜか親密さを感じさせてくれたのです。その古武士然とした痩躯の彼に、『ご苦労様!』とメールをした今日であります。セミの声がにぎやかで、どうも今日も猛暑の一日に間違いなさそうです。

(写真は、百年の歴史を持つ「協和学院」の校舎、今も「海外教育医学院」として使用されています)

2008年7月9日水曜日

粽


 この五月の初めに、弟からメールがありました。『この時期に、よくお袋が菖蒲湯を沸かしてくれたよね!』と言ってきたのです。父の家は、年中行事を守る家庭ではなかったのですが、「端午の節句」だけは例外でした。4月の終わりから5月の初めになると、母のふるさとの山陰・出雲から、祖母の手作りの「粽(ちまき)」が、男の子4人の我が家に決まって送られて来たのです。笹の葉で巻かれ、食べることができるように篠竹がさしてあったと思います。蒸かし器で母が蒸かしてくれたのを、『アチッチ!』と言いながら食べた記憶があります。こんなことを書き始めますと、どこからとなく笹の葉のにおいが家中に満ちていたあの頃の様子が蘇ってくるようです。父が買ってきた「こいのぼり」も、この時期にあげられていたと思います。兄が、われわれ弟たちの背丈を柱に記してくれました。

 ですから「端午の節句」は、「粽」と「菖蒲の風呂」と「こいのぼり」があって、学校が休みだったこともあって、とてもうれしかった記憶があるのです。ところが昨年、天津 で学んでいたときに、老師が、スーパーや商店で売っている中国製の「粽」の起源について話をしてくれました。

 紀元前、楚(そ)の国に、「屈原(くつげん)」という政治家がいました(前340頃~前278頃)。国王の家臣で、正義感と愛国心に富んでいて、王の信任を得、民衆からの人望も篤かったのです。ところは、陰謀によって失脚した屈原は、国を負われる身となります。都落ちをする間に、「汨羅(べきら)」という川(現在の湖南省の省都・長砂の南を流れる川)にやって来たとき、その流れに身を投げて自死してしまったのです。弟を亡くして悲しんだ姉が、お米を入れた竹筒を川に流したのだそうです。その後、「憂国の士」であった彼を慕う楚の人々は、彼の命日(旧暦の5月5日)になると、小舟で川に入り,太鼓を打ち鳴らして、その音で魚をおどかし,「粽」を投げ入れて,「屈原」の死体を魚が食べることのないように願う行なわれるようになったのです。その行事が、奈良時代に、日本にも伝えられます。中国で行われている「ドラゴンレース(龍舟比賽)」も、屈原を慕う民衆の思いから生まれた川の行事として残されているようです。

 子どもたちの成長を願う親たちは、どの国も同じで、はやり病から子どもたちが守られ、無害であるようにとの願いが込められて、この時期に「端午の節句」が守られてきたのです。日本でも、「粽」を子どもたちに供して食べる風習が定着してきたようです。「こいのぼり」や「武者人形」などは、太平の世・江戸時代になってからのことだと言われています。

 ちょっと物悲しい「屈原」のお話ですが、それを知ってか知らないでか、私たちの祖母は毎年、「端午の節句」に、「粽」を送ってくれ、健康で活発に成長することを願ってくれたのですね。「粽」には、薬効はないのかも知れませんが、おばあちゃんの優しい願いや祈りがこめられていたわけです。食べた私たちは、あの単純な伝統菓子と、祖母や両親の願いに育まれれたことになります。子の世代を思う大人たちの願いは、いつの時代も変わらないものがあることになります。

 この5月には、次女の長男が3歳、長男の長男が2歳になりました。大陸のババは、「粽」を作って送ることができないでいますが、彼らの無事と成長を心から願っている「祈りのババ」であります。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。