2009年5月1日金曜日

『今頃、高尾駅は・・・・・』


 甲府盆地から、「郡内」と呼ばれる河口湖や都留方面に抜けるためには、いくつかのルートがあります。境川から上九一色を経て精進湖に抜けるか、峡南の市川から本栖湖に抜けるか、御坂峠(今はトンネルがあります)を越えて河口湖に抜けるかでしょうか。それでもなかったら、大月まで行って、都留を通過して行くかです。山道は、春夏秋冬、どの季節に、どの道を通っても、山里の素朴な美しさを見せていました。生まれたのが山里の12月でしたから、原風景に似た景色を眺められるからでしょうか、郡内への山道は、わらや木切れを燃した煙が立ち昇っている冬から早春の風情は、一幅の墨画を見るようで懐かしく思い出されます。

 そういえば、奥多摩の山や山梨県下の山に登っても、雪のない冬枯れの山道が大好きでした。葉が落ちているのは、ちょっと物悲しいのですが、枯葉を踏むカサカサとした乾いた音はなんとも心地よく、葉を落とした木々の間からの見通しもきいて景色が遠いからいいのです。河口湖方面とは逆に、昇仙峡の周りには、山道が巡っていて、北巨摩から信州・川上村に、また乙女峠を経て塩山・奥多摩に抜けられるのです。そのあたりに私の生家があったのです。「日本百名山」を著わした深田久弥が、登山の途中で亡くなった、「茅ヶ岳」に登った時は、ちょうど今頃の季節だったでしょうか。生まれ故郷の二つほど西に寄った沢違いの山なのです。1704メートルの低い山で、昼食後に、頂上の近くの枯葉の上で、ごろりとまどろんだのは実に気持ちがよかったのを思い出します。週日でしたから、ほとんど人がいませんでした。登山途中に、深田久弥の「終焉の地」の碑がありましたが、彼もまた山に魅せられた人だったのですね。

 ここ福州に、「鼓山(gushan)」と言う、海抜455メートルの山があります。頂上まで、階段とロープウェイがある山なのだそうです。登ってみたい気持ちはあるのですが、山道を登れるのならいいのですが、石の階段を踏んで昇ってみるのには、少々抵抗があるので、躊躇しているところです。きっと眼下の眺めはいいのだろうと思うのです。先日は、この山の麓の近くにある「養老院」を見学に行ったのですが、やはり登山道が気になってしまいました。台湾の方で、日本料理店を経営されて、日本語の上手な店主とお話をしたことがあるのですが、『登るなら一緒に行きましょう!』と言ってくれました。同世代でしょうか。芭蕉は、「漂白の思い」がやまなかったのですが、私は、「登山の思い」がやまないのです。高い山には登ろうと思わないのですが、奥多摩の山や茅ヶ岳や入笠山級の山には登ってみたくて仕方がありません。今頃、高尾駅の普通電車の大月行きのホームには、中高年の登山愛好者でいっぱいでしょうね。することがないからではなく、昔の生活のリズムを感じさせてくれる「山登り」が、みなさんは懐かしくて「回帰行動」をとられるのに違いありません。こちらでは、これから《ブーム》になるのではないでしょうか!

(写真は、八ヶ岳から眺めた「茅ヶ岳」です)

2009年4月29日水曜日

父(てて)無し子の級友たちの顔が


 今日は、国民休日の「昭和の日」ですね。私たちが中国に来ましたのが、2006年の8月でしたから、日本不在の2007年に、新たに祝日になった日なのです。もちろん、「昭和天皇の誕生日」であったのですが、お亡くなりになった後に、「みどりの日」に名称が変わりました。この祭日に、『休んだ!』との実感がありませんでしたので、不注意に見逃してしまっていました。本日、4月29日、日本から東シナ海を隔てた、ここ福州で、あらためて「昭和」の時代を顧みております。

 一言で言いますと、「激動の時代」だったのでしょうか。アジアや太平洋への戦争の拡大、国内統制、物資の欠乏、多くの犠牲者、終戦、占領、戦後処理、朝鮮戦争の特需、奇跡的な復興、国連加盟、世界第二位の経済大国、学校の崩壊、全学連、自殺者の頻発、公害、環境破壊、薬害、公害対策、天皇崩御、明仁様の即位、公けにはそのような時代でした。私的には、父と母が結婚し、私たち四人の男の子の誕生、戦後教育を受け、就職、結婚、転職、四人の子どもたちの誕生と成長などの時代だったのです。個人的には、テレビで、皇太子・明仁様と美智子さんのご成婚を、アメリカ大統領のダラスでの暗殺事件を、旧ソ連やアメリカの宇宙開発、市ヶ谷の自衛隊での三島由紀夫事件などの、「衝撃的瞬間」を見たりしました。

 その「昭和」の時代が終わって、「平成(1989年1月8日に元号が変わる)」になって、もう21年になるのですね。それにしても、「平成」の実感が薄いのは、どうしてでしょうか。多情多感な青年期を過ごした「昭和」が、どうしても強烈に印象付けられているからなのでしょう。昭和47年・1971年は、やはり忘れることの出来ない年です。父が召されたからです。当時中野の高校に奉職していた私は、出勤したところに、母から電話が入って、入院先の病院で父が召された旨、知らされたのです。母は、『雅ちゃん、びっくりしないでね、実は・・・』と、一呼吸おいて、父の死を知らせてくれたのです。休みをもらって、その病院に駆けつける間、涙がこぼれて止まりませんでした。あんなに泣いたのは初めのことでした。肉親の死は衝撃だったのです。その日は、父の退院の日だったことで、喜びが裏切られたことが、よけい衝撃度を増したのでしょうか。「父の死」の受容というのは、難しかったと思います。親不孝者が、せめてもの孝行のできる矢先だったからでもあります。葬儀がすべて終わって、高尾霊園に、父の遺骨を埋葬したときには、虚脱感で満たされたのを覚えています。もう一方では、悲しんでいるよりは、五十代中ほどの母を力づける必要を感じたのですが、かえって母からの励ましのほうが大きく強かったのではないでしょうか。

 激動の核になるのは、どうしても「戦争」でしょうか。予科練の生き残りの方が、仲間の死に対して、『彼らの死は、無駄な死でも、犬死でもないのです。祖国のために命をささげたからです!』と言ったことばが忘れられません。有為な青年たちの犠牲の上に、新しい日本の再建がなされてきたことになります。そうですね、お父さんを戦争で失った、大激動の中をめげずに生き抜いて来た「父無し子(ててなしご)」の級友たちの顔が思い出されてきます。

(写真は、野坂昭如作「火垂るの墓」のアニメーションのDVD です)

2009年4月27日月曜日

『這えば立て、立てば歩め・・・』


 隣家に猫が二匹飼われてています。先ごろ若いほうの猫が出産をしました。子猫の声がしばらくしてからやんでしまったのですが、どうも飼い主が、母猫の留守の間に処分してしまったようです。それで、毎日毎晩、産んだ子猫を呼ぶ声がして、実に切ないのであります。親猫の子への情愛が、こんなにも深いのだということを知らされて、鳴き声に悩まされながらも、感心させられております。狼にしろ猫にしろ、人間以上の愛情を子にそそぐ、その様は、『人間よ、猫に学べ!』と言われているようです。
 
 物資の少ない時代の子育ては、きっと大変だったのではないでしょうか。父の若い日の写真が母のアルバムの中にあるのですが、戦争末期に、仕事で山奥の採掘工場から東京の本社や陸軍省に出かけたときの写真のようです。恰幅の良い父にしては、信じられないほどに、頬が落ちて眼がくぼんで、痩せて写っているのです。敗戦間近の東京の食糧難は相当なものだったようです。そんな中、四人の子育ては、山村でも並大抵ではなかったのではないでしょうか。飽食の今からは、想像することが出来ない、《食べられない時代》があったのです。どこからか、生まれたばかりの私のためにミルクを、兄たちの食料も調達してきて、ひもじい思いをさせなかった父と母には、感謝がつきません。

 『子を持って知る親の恩!』、父と母に、私たち四人兄弟があったのですが、私たちにも四人の子が与えられました。子育ては、70~80年代の好景気の時代でしたから、私の父母に比べたら容易だったのだと思われます。それでもお金がなくて、米が買えないときもありました。『どうしよう?』と思っている矢先、『広田ちゃん、米が採れたので食ってくれますか!俺が母ちゃんと作った米、うまいですよ!』といって貰らい、兄の福井の友人や知らない人から送って来たり、そんなことが何度もあったのです。『おかずがない!』と思っていたら、佃煮が送られてきたり、肉を戴いたり、結構ぎりぎりのところで、備えられたことが度々あるのです。そうしますと、子どもたちにとって、『何不自由なく生活できる我が家!』ではなく、物のないときを一緒に過ごしたことがあったことになります。いつも、ぎりぎりのところで、カラスが運んでくれた経験をしていることにもなりますね。継ぎを当てたズボンなどはいている子などいなかった時代でしたが、継ぎをしたものを着たり穿いたり、お古を使ったりしてきたのです。そういった経験は、子どもたちにはよかったのでしょうか。また、《待つこと》や《我慢》を学ぶことが出来たのもよかったに違いありません。

 長男に子どもが二人、次女にも二人いて、今、私と家内には計四人の孫がいます。『這(は)えば立て立てば歩めの親心 !』は、ジジとババの心でもありますが、健康で元気に育っていることは何よりです。

  『野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる!』
  『一切れのあわいたパンがあって平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家に
   まさる!』

という諺がありますから、そんな家庭で育っていってほしいと願ってやみません。「端午の節句」で、鯉幟を挙げ、武者人形を買ってあげられなのですが、心と体が健全で、愛心や優しい心を宿した子どもとして育ってほしい、名のない野の花のように、春の若芽のように、静かに、そして着実に、すくすくと、そう心から願う「黄金週間」目前の福州のババとジジであります。

(写真は、HP《静かな裏庭》の「枇杷の芽」です)

2009年4月26日日曜日

孫たちの成長を願った祖母の心


     「背くらべ」    海野 厚作詞  中山晋平作曲

  柱のきずはをととしの   五月五日の脊(せい)くらべ
  粽(ちまき)たべたべ兄さんが   計(はか)つてくれた脊(せい)のたけ
  きのふくらべりや何(なん)のこと  やつと羽織(はおり)の紐(ひも)のたけ

  柱に凭(もた)れりやすぐ見える  遠いお山も脊(せい)くらべ
  雲の上まで顔 だして  てんでに脊(せい)伸してゐても、
  雪の帽子(ぼうし)をぬいでさへ  一はやつぱり富士 の山

 昭和11年は、青年将校たちが、『昭和維新!』を掲げて決起した、「二・二六事件」があった年でした。その時、彼らが歌ったのが、昭和5年、24歳の海軍少尉・三上卓が、長崎の佐世保で作詞した、『汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ  巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ  混濁(こんだく)の世に我れ立てば  義憤に燃えて血潮湧く 』という「青年日本の歌」なのです。この「汨羅(べきら)の淵」とか「巫山の雲」というこのことばですが、『いったい、何のことだろう?』と、思って調べてみました。「汨羅」とは、湖南省にある川の名で、屈原という人が入水(じゅすい)したことで有名な川です。また、「巫山」とは、四川省にある山の名で、楚の懐王が見た夢に登場しています。美しい山というよりは、どうも道徳的に乱れた状況が見られた地域として有名なのだそうです。三上卓が、昭和初期を、「混濁の世」と言い、その世相に「義憤に燃えて」歌ったわけです。お隣の中国の故事の中から、『昭和の世は、道徳的に退廃し、自殺者がおびただしく出て、実に嘆かわしい!』という、嘆きの気持ちを込めて詠んだのでしょうか。

 ところが、泪罗に身を投じた屈原は、ここ中国では、高く評価されいる人物で、歴史上の実在者なのです。彼は、「悲劇の武将」と言ったらいいでしょうか。もっと積極的に言いますと、「憂国の士」、「愛国の士」と言った方がいいかも知れません。戦国春秋の時代の「楚」の政治家で、名門の王族の出でした。懐王に仕え、信任が篤かったのです。当時、楚は、「秦」と「斎」という二つの国と、どう国交していくかについて、意見が分かれていました。屈原は、親斎派で、『秦を信用することはいけない!』と主張したのです。ところが、政治的な手腕が優れ有能であった屈原を妬む「親秦派」に讒言され、結局、懐王は、秦と国交することに決めたのです。屈原が案じたとおり、秦は楚を攻撃して負かしてしまい、難題を要求し懐王も人質にされ、楚は風前の灯のような状況でした。国の将来を憂えた屈原は、泪罗江に身を投じてしまったのです。その日が、五月五日でした。

 弟を愛した姉は、屈言の遺体が魚に食われないように、竹の筒に入れたご飯を泪罗に流して、遺体を守ろうとしたのです。その後、彼の命日に、彼を慕う人々によって、「栴檀 (せんだん)」や「笹」の葉でご飯を包み、五色の紐でしばって、汨羅の川に流すようになったのです。それが「端午(たんご)の節句」の「粽(ちまき)」の始まりです。

 子どもの頃、毎年、五月五日の前になると、小包が届きました。母の故郷からでした。母の養母が、母の四人の男の子のために、笹の葉に包んだだももち米粉と米粉で作った「粽」を送ってくれたのです。私たちの成長を、遠く山陰の地から願って、毎年欠かすことなく送ってくれたのです。バターのように滑らかではなく、砂糖の甘さもなく、クリームの美味しさのない素朴な味で、さとう醤油をつけて食べました。孫を思う祖母の心が、その「粽」に籠もっていたのです。舌にではなく、「心」に愛情が届いたのではないでしょうか。また、父と過ごした家の柱に、四人の毎年の背丈を書き込んだ跡が残っていました。さらに、我が家の四人の子どもたちの成長のあとを記した柱もありましたが、解体のときに、柱を保存しておきたかったのですが、置き場所がなくてあきらめてしまいました。「粽」は、屈原の悲劇などつゆ知らず、「端午の節句」の祖母の温もり味であり、「柱のキズ」は、成長の懐かしい思い出であります。

(写真は、HP《godmotherの料理レシピ日記》の「粽」です)

2009年4月20日月曜日

わが師匠の夢


 中国に「二胡(にこ)」という楽器があります。胡弓とも三味線とも違っていて、ヴァイオリンのように弦で弾くのですが、肩ではなく左足の付け根に置きます。私は、三味線にはまったく興味がありませんでしたが、『中国に行って、もし時間があったら、二胡を習ってみたい!』と思っていました。天津の私たちの通っていました学校の近くに、「天塔(テレビ塔)」があります。友人が、その近くに住んでいて、訪ねた帰りに、川辺の東屋で、二胡を演奏して、それにあわせて歌っている人たちを、自転車を止めて眺めていたことが何回かありました。二胡に興味があるのを知った老人が、『ずっと、ここにいるのなら教えてあげよう!』と言ってくれたのです。でも、まもなく、私たちは福州に越してしまいましたので、その機会をえませんでした。

 昨年の暮れに、友人との談笑の中で、「二胡」が話題になったのですが、そのとき、私は、『習ってみたいんですが!』と話しましたら、この友人が、一人の方を紹介してくれたのです。福州人ですが、長らく広東省の「深圳(しんせん)」でマッサージをされていた方で、やめて福州に家を持たれて帰って来られたのでした。お名前を、「陳」とおっしゃいます。1941年の生まれですから、すぐ上の兄と同い年で、生まれてまもなく失明され、悶々とした中で自殺も考えられたそうです。それでも、ある方の勧めで、マッサージの学校に行くことになり、そこを終えた後は、北京にある短期大学に合格され、そこでもマッサージ術を勉強されたのだそうです。卒業後、深圳で開業され、腕を評価され、広東省の省長さんや市長たちがお得意さんだったそうです。なかなかの人格者で、眼のよくないみなさんと、音楽活動をされておられ、様々なところに出かけています。更なる活動を期しておいでです。この方は、二胡とは別に、お皿を楽器にして演奏もされるのです。

 この方が、『教えましょう!』と言ってくださったのです。17歳から始められて、抜群の腕の持ち主ですが、この私に週一度2時間のレッスンを無料でしてくださるというのです。彼の夢は、彼の演奏活動に、私を連れて行くことなのだそうです。六十を過ぎてから、発心して新しいことに挑戦しようとした気概を喜んでくださったのです。それで一生懸命に教授してくださるわけです。ところが音楽の素質の無い私は、なかなか上達しないのです。悪戦苦闘、それでも少しづつ弾けるようになってきていますが、まだまだ人に聞かせるところには至りませんが。

 先週のレッスンの合間に、失明に至る話をしてくれました。友人が通訳してくれたのですが。お父様が、福州でラジオ放送のお仕事をされていたそうです。日本軍が来るというので、福州の北にある三明市に、放送機材を運んで、山の中で放送を続けたようです。この陳先生は、お母様のおなかの中にいて、悪路を慌しく、その町に疎開されたのです。日本軍が、その疎開先の町にもやって来て、お母様は、『殺される!』といった恐怖に満たされて、家の中に隠れていたのです。ところが幸いにも、家の中に入ってこないで去ったのだそうです。そんな困難の中に、陳先生は誕生されたのです。私が、『失明と日本軍の侵略と関係があるのでしょうか?』と言ったのですが、彼は否定されましたが、言わずもがなであります。戦争が終わって、お父様の貯金を全部持って、上海の有名な眼科で受診されたそうです。医者は、『生まれてすぐに手術をしていたら・・・・』と言われたそうです。遅かったのです。もし、日本軍さえ来ないで福州にいたら、汽車で上海に行くことが出来たのです。やはり、関係があるわけです。でも彼は、日本を恨んでいませんで、日本人の私に「二胡」を教えることを喜びとし、私を連れて出かけることも夢見ていてくださるのです。この年になって、また師匠を頂いたことは、私にとってはとても感謝なことであります。

 やぁー、こんなに期待されたら、ここにいなければなりませんし、もっと上達しなければなりませんね。もし許されるなら、師匠のかばんを持って、町々村々を旅したいものです。夢や幻は、年齢には関係ないのです。どうも、おっちょこちょいの性格は、いくつになっても直らないようです。

(写真は、HP《タカハシミュージックプラザ》の「二胡」です)

2009年4月19日日曜日

『どんな醜い母でも、愛さなければならない!』


     『あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。』

 『誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。』を「批判」、『相手の欠点や過失を取り上げて責めること。』を「非難」、『他人の悪口を言うこと。」を「誹謗(ひぼう)」、『根拠の無い悪口を言い、他人の名誉を傷つけること。』を「中傷」、『事実・論理に合わない、でたらめなことば。』を「妄言(もうげん)」、『罪状や責任を問いただして、とがめること。』を「糾弾(きゅうだん)」、『他人を陥れようとして、事実を曲げ、いつわって悪し様に告げ口をすること。』を「讒言(ざんげん)」、と三省堂の「スーパー大辞林」にありました。聞いて心地よくないことばを言い表した「ことば」をこれだけ知っていますが、ほかには思い出せません。

 何で、こんな「ことば」を挙げ連ねたかといいますと、願わないことをたびたび人から言われきたからです。私は極力、人の悪口を言ったり陰口を利かないで生きてきたつもりですが、さりとて失敗もきっとあるはずですから、誇れませんが。これまでの私に対する「ことば」を思い返しますと、「非難」と「讒言」を、何度か聞いてきましたし、「批判」はしょっちゅうでした。『それだけ、私に関心があるからなのだから!』と思って、聞くことにしたのです。当を得た「ことば」であるなら、くみ上げて、反省もしました。誤解されたときは、馬耳東風で聞き流してしまいました。そんな中で、どうしても忘れられない「ことば」が幾つあります。まあ忘れられないで覚えているのですから、強烈だったことになるでしょうか。その中で一番強烈だったは、事実無根なことを公にブログで攻撃されたことでしょうか。

 そのほかに心外だったのは、「マザコン」と陰口されたことです。直接ではなく、家内を経由して、そう言われたのです。一度や二度ではありませんから、『俺は、本物のマザコンなのだろうか?』と思って、『では、マザコンに徹してやろう!』と反骨の思いをもったりしたのです。なぜかと言いますと、私が母親のことを話題にして、ちょくちょく話したからでした。母を語る、母を誇る、これは「孝」や「感謝」であって、誰もがすべきことだと思いましたから、「マザーコンプレックス」のレッテルを貼られても、母を語って止むことなく、ここまで生きてきました。中国語辞書では、「対母親的錯綜意識(幼年時受母親過分寵愛的人、青年時期所表現的一種対女性関係的抑制心理状態)」とありました(遼寧人民出版社「新日漢辞典」)。精神医学者で「精神分析」の創始者のフロイトが命名したことばです。

 中国に、『どんな醜い母でも、愛さなければならない!』という格言があるそうです。だからでしょうか、中国の武勇伝の英雄たちは、自分の母をよく語り、敬い、大切にし、誇るのです。そのような母親思いの武将を、民衆は高く評価し、英雄視するわけです。「日本青少年研究所」という団体がありまして、2004年に、日・米・中の高校生の調査をしました。その中で、『どんなことをしてでも親の面倒を見たいか?』という項目に、次のような結果がでています。アメリカは67.9%、日本は43.1%でしたが、中国は84.0%という高いパーセンテージを上げているのです。『祖国は母である!』、国を愛するなら、母を愛するということを学び、中国の青年たちは、それを実践しようとしているのです。そんな若者たちの一人が、深沢七郎の「楢山節考」を知っていて、「姥捨山伝説」について質問されたことがあります。私が母を誇ることと、その私をフロイトの口を借りて『マザコン』と言うのと、どちらに軍配が上がるのでしょうか。中国の若者たちは、きっと私を支持してくれるに違いありません。中国に来てよかった、ひとつの理由の一つがこれであります。今日、二歳違いの弟が、母孝行の行き先を、出雲から鎌倉に替え、『五月の連休に、一緒に行って来るね!』と言ってきました。うーん、弟には負けてしまいます!

(写真は、東映映画「楢山節考」の一場面、主演の緒形拳は昨年10月に亡くなりましたね)  

『ピチピチ チャプチャプ ランランラン!』


 先週、授業のときに、『あめあめふれふれ、母さんが 蛇の目でお迎え、うれしいな・・・』を歌ってしまいました。篠つくような雨の中を出勤した私は、北原白秋作詞、中山新平作曲の「あめふり」を披露したわけです。歌っていて、小学校のころの光景を思い出してしまいました。涙はこぼれませんでしたが、歌い終わりましたら、万雷の拍手がありました。日本の「梅雨」は、六月から七月頃ですから、一足も二足も早いのですが、ここ福州の雨を、日本で生活をしたことのある知人たちは、「梅雨」と呼んでいます。本来、「梅雨」は、揚子江を境に、北の気団と南からの湿気を帯びた暖かな気団が、長江上空でぶつかり合って、「梅雨前線」を発生させて、朝鮮半島や日本列島に、雨をもたらすのですが。こちらの今頃の雨も、やはり、日本の「梅雨」に感じが似ていて、同じ漢字で表記しますが、「黴雨(中国語では《霉雨meiyuメイ・イ》」と書いて、黴の生えやすい時期であることを言い表しています。実によく降りますが、それでも,『ピシッ!』と止んでは降るを繰り返しています。去年も、この時期を、こちらで過ごしているのですが、『こんなに雨が降ったかな?』と思ったりで、季節の移ろいを余裕をもって感じられるようになってきたのでしょうか。

 さて、歌ですが、『・・・・ピチピチ チャプチャプ ランランラン!』と続けたので。これは擬声語ですが、説明が難しいのです。身振り手振りをしましたら、みんなは分かったのでしょうか、頷いてくれました。この擬声語は、日本の国語の中には多くあって、わが国語の一大特徴かも知れませんね。人や動物や自然が、動いたり発したりする様子を、『きっと、こうだろう、そうだろう!』と思っては、ことばで表現するのですから、とても興味深いものです。雨を歌った歌の多くが、悲しくて切なくてやるせないのですが、この歌は違います。蛇の目を持って迎えに来てくれたお母さんがうれしくて、この子は『ランランラン』と、ホップしながら鼻歌を歌って喜んでいるのでしょうか。お母さんが忙しくない、いつも家にいてくれ、登校時には見送り、家に帰ると出迎え、急に雨が降ると、わざわざ傘を持って学校まで迎えに来てくれるのですね。そういえば、この歌は、母が八歳の頃(大正14年)に発表されているのですから、そんな悠長な時代だったのです。

 昔のお母さんは、化粧していませんでしたね。割烹着(白い木綿の生地で出来た料理用の上っ張り)を着て、下駄を履いて、買い物籠を下げていたと思います。家事や子育てに専念できた時代だったわけです。やっぱり、子どもたちにとってはいい時代だったわけで、情緒の豊かな人に育ったに違いありません。うーん、物の豊かさよりも、心の豊かな、そんな時代はもうやってこないのでしょうね、とても残念ですが。




(写真は、「あずさ屋(長野県喬木村)」で、蛇の目の傘を作成しているところ。下は、完成品です)

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。