2009年2月22日日曜日

「ハインリッヒの法則」の証明



  『健康のためには、自動車よりも自転車がいい!』とのことで、近所に出かけるときは自転車に乗っていました。ある時、道沿いにあるハンバーガー・ショップの中の様子を、首を右に振って見ていましたら、急に電信柱がぶつかってきたのです。漫画では、火花が描かれる画面ですが、まさにその通り、痛打した目から火花が放たれたのです。また、歩道を越えようとして、上手に乗り上がれなくて、横転して、しこたま痛い目にあったことも、何度もあります。そういったことを子どもの頃から繰り返してきました私は、『いつか大きな怪我をするかも知れないけど、なぜか守られている!』と自負していたのです





 『一件の重大な事故が発生する背後に、29の小さな事故があり、そして300のヒヤッとする経験がある!』と言う法則があります。アメリカの損害保険会社の事故調査副部長だったハインリッヒが、統計学的に調査して、1929年に発表した結論です。歩き始めてから、ヒヤッとしたことは、300回ではなく、30000回ほどあったのではないでしょうか。擦りキズや手キズや脛のキズなど数えると、300ヵ所ほどは優にあるに違いありません。とくに手キズは、傷の上に傷が残っているほどです。




 2005年の2月、ある朝の未明に自転車に乗って家を出たのです。坂が下っていた道路の左端を走っていて、向こう側に渡ろうとしていたのです。前方から来る車のライトが目に入りましたから、早く渡り切ってしまおうと、急いで横切り、歩道を越えようと思いました。そうしましたら、自転車では越えられないほどの高さの路側帯にぶつかって、自転車から思いっきり弾き飛ばされてしまいました。その直後に車は通り越していたのですが、幸いにも私は、道路側ではなく、歩道側に投げ出されて、輪禍にあわずにすんだのです。ところが、打ちつけた右腕が上がらないのです。医者に行きましたら、「右腕の腱板断裂」とのことでした。




 まさに、「ハインリッヒの法則」を身をもって証明してしまったのです。ただし、100倍ほどのヒヤッとした経験、10倍ほどの小事故に遭っていましたから、確率的には低かったわけです。『雅仁、いつか大怪我をするから、注意深くするんだ!』と、母親や父親からではなく、過去の経験が忠告していたのですが、注意が足りなかったのでしょうか、そんな結末を迎えてしまったのです。でも、手術と入院生活と長いリハビリで、ボールが投げられ、重いスーツケースを下げて旅行できるように快復いたしました。父にも兄たちにも友人たちにも、『おっちょこちょいの雅仁!』と言われ続けてきましたが、幾つになっても直らないには閉口します。きっと母に似たのでしょうか。母は、去年の暮れに「肋骨」を骨折したのです。91才でした!う~ん、これからが、なおなお心配です、母も私も・・・。

(写真は、福州の街中を40キロ以上で疾走する「電動自転車」、HP《団塊Jr黙示録》の「ハインリッヒの法則の図」、HP《福岡県星野村》の「天文台」、HP《大阪府交通対策協議会です) 》の「自転車」です)

2009年2月21日土曜日

『父母を父母として遇する!』



 子どもの頃、父も母も親戚付き合いは、多くはありませんでした。それでも母の故郷・山陰に旅行をしたり、父が中学時代に身を寄せていた大森の親戚の家などを、みんなで訪ねた記憶があります。もっと、足しげく行ってみたかった父の三浦半島の生家には、父の継母の葬儀の折に、父に付き従って訪ねただけでした。なぜか、父は、兄たちではなく三男の私を連れ出したのです。もしかしますと、私が父の父似だったからかも知れません。

 父に愛され、期待された息子だったのですが、応えることのできなかったことは、私の悔いのひとつであります。もう何十年も前からですが、父の生まれた町、通った東京や秋田の町、若い一時期を過ごした遼寧省の瀋陽(父の時代は《奉天》と言っていましたが)、朝鮮半島の京城(ソウル)、そういった町々を訪ねてみたい思いが強くあるのです。




 父は61の誕生日を過ぎて間もなく、入院先の病院で、脳溢血を起こして召されたのです。父の退院する日の朝、唐突に、父との別れが訪れましたから、ことさらに父とのつながりを確かにしてみたい思いが強いのかも知れません。幾つになっても父は父なのですね。『父は、父なるが故に、父として遇する!』と言うことばを聞いたときから、父への敬意、感謝の足りなかった私は、そういった思いが募るのでしょうか。いまだに健在な父の連れ合いであった「母」に、その思いを向けたらいいいのでしょう。来月、92歳になる母ですが、兄によりますと、食欲が旺盛なのだそうです。散歩を嫌って、近くのドラッグストアーに入り込んで、時間潰しをする茶目っ気たっぷりの母であります。『母は、母なるが故に、母として遇する!』も然りであります。う~ん、元気だったときの、父の颯爽とした姿や、甲斐甲斐しく世話に励んでいた日の母の姿が、目に浮かんでまいります。

(写真は、HP《ぐるめ・あいとっと》の「横須賀海軍カレー」、HP《旅スケ》の「山陰・出雲の夕日」です)

2009年2月19日木曜日

一兵卒の愛



 この「春節」の休みに、シンガポールに参りましたが、滞在期間延長のため、一旦、シンガポールを出る必要があって、マレーシアのジョホール・バルにつれて行ってもらいました。そのとき、日本軍が、タイから南下して来て、この街を通過して、シンガポールを陥落したことを思い出したのです。

 その街の中心に、日本のジャスコの店舗が、まるでお城のように夜空に向かってそびえていました。『ジャスコはマレーシアに30店舗あるんです!』と聞いて、スーパーマーケット業界の東南アジアでの躍進と、《マレーの虎》と言われた山下奉仕文の侵攻とが、ダブるようにして感じさせられたのです。

 そんな戦時中、南方の島に進駐していた日本軍は、アメリカ軍の攻勢で撤退せざるを得なくなって、島を捨てて飛行機で逃げ出したのだそうです。将校と兵士はみな、飛行機 に分乗できましたが、看護婦さんの乗る余地がなかったのです。結局、『仕方がないが、看護婦は残して行こう!』と言うことになったのだそうです。その時、茂木一等兵という人が、『私は乗らなくてもい いから、ぜひ看護婦さんたちを乗せて行ってくれ!』と叫んだのです。それで、茂木一等兵が残り、代わって看護婦を押し込めるようにして、飛行機は飛 びたったのです。これは、この様子を目撃した人の証言であります。

 その茂木一等兵の消息は、そのまま不明で、南の島でいのちを落としたようです。このような名も階級もない一兵卒が、若い看護婦のために、自分の特権を放棄して、「愛」を示したことになります。評判の芳しくない日本軍の中に、かくなる人がいたことで、ほっとした思いにさせられるのは、私ばかりではないはずです。

(写真は、「ジョホール・バルの税関」、こちら側が、マレーシア、向こう側がシンガポールです)

2009年2月18日水曜日

望郷の思い



 「百人一首」の中で、紀貫之が、「故郷(ふるさと」)」について次のように詠んでいます。『人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞむかしの 香ににほいける 』とです。その意味は、『人は、どうかは知らない。でも、懐かしいふるさとの花(梅でしょうか)だけは、昔のままの芳しい香りを放って咲きほこっている!』なのでしょうか 。

 私にも故郷があります。兄や弟と駆け巡った山野がありましたし、ハヤや山女を流れの中に見つけた小川もあったのです。一生懸命に働いてくれる父がいて、家事一切をして子育てにいそしむ母が元気でおりました。中部山岳地帯の富士川に注いでいる沢を登った、熊やサルや鹿の出没する山村で生を受けた私は、兄たちの後をついて山道を追っていました。私が小学校に上がった夏に、4人の息子たちの将来や教育を考えた父は、東京に出ることを決めたのです。まだ武蔵野の風情の残った中央線の多摩地区に、父は家を買いました。そこは、まだまだ農村と言った感じがしておりましたから、級友たちの多くは農家の子だったと思います。




 故郷は、生まれた土地なのでしょうか、育った土地なのでしょうか。きれいな小川があって、蝉の鳴く夏があって、野の花の咲く土のにおいがして、思い出の中に鮮明に刻まれる土地、厳格(こわ)い父は逝き、笑顔の母は老いて、国外に住む私は、はるかに故国に思いを向けております。二親とも活き活きとしていた時代の団欒、そここそが「ふるさと」なのかも知れません。懐かしい光景と匂いの中に人がいて、郷愁(おも)う「ふるさと」があるのでしょう。

 それでもなぜか、自分の中に、《本物の故郷》を憧れるような望郷の思いがあって、しきりに呼び寄せられているように思えてならないのですが。

(写真は、《松雄博雄の社長研究室HP》の「大空」、《おたる水族館HP》の「やまめ」です)

2009年2月17日火曜日

李冰と信玄



 『武田信玄が、もう少し遅く生まれ、健康だったら、天下を取ってていただろう!』と言われる歴史家がおいでです。城を持たなかった信玄は、何よりも「人」を大切にした戦国武将でした。数年前に、四川省の「都江堰」を訪ねたことがあります。そこは、春の雪解け水で増水した岷江(ミン・ジアング)の防護堰であり、下流域の灌漑用水の取り入れ口でした。四川盆地を「天府之国」と言うのですが、この堰によってもたらされた豊穣の故だそうです。紀元前3世紀、洪水をくりかえす岷江の流れを緩め、また二分して下流域の農業振興のために、太守の「李冰(リ・ビング)」が、4年の歳月を費やして設けたものでした。

 この故事を、「史記」を読んで知った信玄が、御勅使川(みだいがわ/釜無川・富士川の支流)の洪水で苦しむ甲府盆地の農民のために、都江堰に倣って造ったのが「信玄堤」です。そのような経緯があって、山梨県と四川省とは姉妹関係を提携して、人材や産業文化の交流をしているのです。昨年の四川大地震の折には、山梨県下の中学校から義捐金が送られているニュースを聞きました。




 お金や物ではなく、「人」こそが、最重要されるべきなのでしょう、李冰や信玄のように、人を大切にしますと、富や収穫が、人望を伴って後からついてくるのではないでしょうか。信玄は、『人は石垣、人は城、人は堀、情けは味方、仇は敵なり!』ということばを残しております。う~ん、下克上の戦国の世に《情け》だったんですね、人として幸せなことは、「・・・情け深く、人には貸し、自分のことを公正に・・・・」生きることに違いありません。

(写真は、四川省の「都江堰」、釜無川の「信玄堤」です)

2009年2月16日月曜日

索道



 山奥で鉱物(石英)の採掘事業をしていた父が、馬に乗っていたことに、前回触れましたが、採掘現場から集積工場までは、「索道(さくどう)」と言う、ケーブルカーが敷設されていたのです。山の中を数キロに渡っていましたから、当時としては難工事だったのでしょう。採掘された鉱物を、隣村の集積工場に運び、そこからトラックを使って街の駅に運んでいたのです。それを東京の工場で加工して、水晶発信子用や防弾ガラスの原料を製造し、軍用の計器や飛行機に用いていたそうです。平和な時代になって、その索道で、山奥から熊や鹿が運ばれて、索道 の油くさい車輪軸のそばに置かれていたのを覚えています。子どもの目には実に大きく見えました。

 この索道に、兄たちは乗せてもらって、山奥の採掘現場に行ったことがあったようですが、おっちょこちょいの私と幼かった弟を、父は決して乗せてくれませんでした。ですから兄たちが羨ましくて仕方なかったのです。

 索道の始発点に住んでいたのですが、その工場と家があったあたりを母と兄と弟で、30年ほど前に訪ねたことがありました。丈の高い夏草で覆われてコンクリートの台座だけが残っているだけで、谷の向こうから、架かっていた極太のワイヤーも、それを支えていた鉄骨の櫓も、みな撤去されていたのです。終戦とともに、山も村も会社も、そして私たち家族も、大きく変化したことになります。

 沢違いの部落に、弟と私の生まれた家屋が残っていました。苔むすと言うのでしょうか、まったく老朽化していましたが、『ここから始まったんだ!』と思いますと、実に感慨深いものがありました。

(写真は、長野県飯田市のHPの「索道」、兄たちが乗っていたのとまったく同じものです)

2009年2月14日土曜日

心根の優しい父



 今で言えば、「高級乗用車」になるでしょうか、父の事務所のあった街の連隊の連隊長の馬よりも、はるかに毛並みの優れたな馬に、『俺は乗っていたよ!』と、父が自慢していました。山の奥にある採掘現場と工場と町の事務所の間を馬に乗って移動していたのです。その連隊長が、父の馬を欲しがったのですが、決して手放さなかったほどでした。馬丁さんに、世話を任せていた自慢の馬だったわけです。

 ある日、知り合いが、『美味しい肉が手に入りましたからお持ちしました!』と言って持ってきたのです。疑うことなく父は食べ、母も兄たちも食べたのでしょう。私と弟は、まだ生まれていませんでした。しばらくたったら、それが、自分の愛馬であったことに気付いたのです。食糧難の時代だったこともありますが、馬丁さんの息子が病気になって、どうしても滋養のある食べ物を食べさせる必要があったようです。それで目をつけたのが父の馬だったわけです。それを知った父は、烈火のように怒ったのだろうと思ったのですが、何も言わなかったのだそうです。自分も食べてしまっことでもありましたから。

 《人情物》のテレビ番組を見ては涙を流す父を知っていましたから、馬丁さん家族に同情を示したのでしょう、心根(こころね)の優しい父だったのです。「あわれみを愛・・・」することは、物の犠牲に通じるのでしょうか。人生が物の獲得レースではないことを、父は教えてくれたことになります。

(写真は、父が馬の背で行き来した「峠道」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。