2008年10月19日日曜日

わが身体髪膚いかに装わんや 


 先日、外出時の「出で立ち」を思い出してみたのです。頭には、次兄からもらった「帽子」、上着は、長男夫妻から父の日のプレゼントとしてもらった「チェックのシャツ」、ズボンのベルトは、30年ほど前に次兄からもらった物、下着とズボンは「自前」、靴下は、次兄にもらった物、靴は、昨年天津に来た次男が、デパートに行って買ってくれた「中国製」、肩から提げた「カバン」も次兄がくれたものでした。その中に、弟が送ってくれた書類が入っていました。買い物や遊びに行くときには、次女の送ってくれた「OREGON」と刺繍されてある、孫がかぶっているのと同じキャップを頭にのせるのです。朝、食事のときに飲んだのは、家内の妹が送ってくれた「ブラジル産のコーヒー」、デザートは、次女が送ってくれた「チョコレート」と、家内が日本語を教えた学生が持ってきてくれた「故郷の特産の木の実」でした。時々飲むのが、長女の送ってくれた「アールグレイの紅茶」なのです。『懐かしんでくれるでしょう!』と思ってでしょう、次男のガールフレンドが送ってくれた清里の清泉寮の「かりんとう」と「森永チョコレート」も,、大事につまんでいます。冬になると、愛用する「リップクリーム」は、アメリカの友人が送ってくれて、登場を待っています。

 両親から受けた「身体髪膚(しんたいはっぷ)」を装う物も、これを養い保つために頂く食べ物も、その多くが「頂き物」であることに気付かされて、知人や兄弟や子どもたちの好意によることを知らされて、感謝に心があふれた次第です。就学前に、肺炎に罹って、死線をさまよったときに、入院した病院で、ベッドの下に布団を敷いて、添い寝をして看護してくれたのが母でした。その世話で癒えた私は、その後も何度か肺炎を冒したのですが、『今度罹ったら危ないですから!』と医者に言われながらも、母の懸命の看護で生き延びることが出来たのです。その母の作ってくれた食事を食べ、励まされて、丈夫な体に回復することが出来ました。

 2006年、天津で冬を迎えて、体調を崩した私は、気管支炎でしょうか喘息気味で寝込んでいました。それを知ったオーストラリア人の男性が、アメリカ製の薬を持ってきてくれ、イギリス人の友人が市場で見つけた日本映画のDVDを持ってきてくれました。薬が効いたのでしょうか、愛にあふれた好意が働いたのでしょうか、すぐに元気になったことが思い出されます。



 そういえば、思想だって、哲学だって、教養だって、自分で悟ったりはしていません。みんな先人からの「頂き物」なのです。両親や先生たちが教えてくれたこと、読んだ本、聴いた講演,見た映像、聴いた音楽、それらが私の人となりを形作ってくれたわけです。学校に行かせてくれたのも父でしたし、就職をして、上司につまずいたときに激励してくれたのも母でした。ほめたり叱ってくれた先生たちもいました。生意気盛りの私を殴って、気付かせてくれた先輩もいました。

 自分に今日あるのは「恥じな過去」のみです。思い出しますと赤面の至りで、もし、どこかでお会いしたら、何と言って詫びるべきか、多くの人の顔が思い浮かんできます。まあ最高に苦労を掛け、忍耐させたのは、家内ではないでしょうか。ダイナマイトで砕いたばかりの岩のかけらのように、丸みのない私の鋭い角で、幾たびも心を傷つけてきたからです。そのおかげで、私の方には少し丸みをつけることが出来たでしょうか。



 みんなに、『ありがとう!』と言いたい、大陸の秋10月であります。今日学生たちが、10名来て、みんなで「四季の歌」を、『・・秋を愛する人は、心深き人、愛を語るハイネのような、僕の恋人・・・・』と一緒に歌いました。『妻と子どもたち、友人も親爺もお袋も、みんないて、今日の自分があるのだ!』と感じること仕切りです(10月11日記)。

(写真は、「ぼうし」、「甲武信岳(http://www7a.biglobe.ne.jp/~happy-sanpo/sanpokiroku/05/kobusigaatke2/051103.htm)の頂上の岩」、「くつ(http://gigazine.jp/img/2006/07/14/shoelace/288301_8881.jpg)」です)


紙一重の違いの彼と俺


 この一週間、PCが使えなく、コピー屋さんのを借りて見た時、1つのニュースが目に飛び込んできました。グアムからロスアンゼルスに移送された三浦和義氏が、収監先の自室で、自殺をして果てたと言うのです。この知らせを聞いて、何とも表現できないような複雑な気持ちを感じているのが、今の正直な私なのです。まるで、自分の分身が、自死してしまったかのように感じられたからです。もちろん彼とは血筋のつながりのまったくない赤の他人ですし、以前、親交があったと言うのでもありません。ただ、ほぼ同世代で、戦争後の混沌とした中に、少年時代を過ごし、同じ時代の風を受けながら、それぞれに駆け抜けた者同士のわけです。彼は少年期に、放火を犯して少年院に入り、退院後も、さまざまな犯罪に関与して、警察にマークされながら、ここまで生きて来たのです。、万引きや盗みを繰り返して、同じ犯罪性を帯びながらも、一度も警察の厄介にならないで済ませてきてしまった私と、彼との違いは何だったのだろうかと思ってしまうのです。要領が悪く、上手に泳ぐことの出来なかった彼と、したたかにずるく過ごしてきた自分との差しか考えられないのです。芸能界で有名な女優の私生児して生まれたと言われていますが、真偽のほどは分かりません。そういった特異な環境の中で、家庭に恵まれない中を育ったのかも知れません。これも私には分かりません。ただ少年院に入りますと、そこで二度と捕まらない悪知恵や、犯罪学の教習を受けて出所して、また犯罪に手を染めると言うパターンを繰り返したようです。


 

 自分は、学校に上げてもらい、それなりの社会的な立場も得ることができ、教壇から人を教えるような仕事にもつかせていただきました。立ち回りが上手で、人の好意を得られて生きてくることができたのですが、三浦氏と自分との違いは、本当に「紙一重」としか感じられないのです。こそ泥などの軽犯罪から強悪犯になって行くといったレールの上から、私は外れることができ、彼は、乗ったままで生きて来たのかも知れません。思ったり考えたりしたことはあるのですが、実行犯として犯罪を犯して捕まると言うことなく、私は生きて来たことになりますが、罪性の根は、三浦氏のものと寸分なりとも違わないのです。彼は、『お前はずるい奴だ、要領よく生きやがって!』と、私に振り向いて言える一人に違いありません。ただ25の時に、黄河の大濁流が押し迫るように、不思議な力が責め寄せて来て、自分の罪を、涙を流し泣いて激しく悔いたことがありました。そして、その後、いくばくかの謝罪も行って来たのです。彼とて、六十代に至って、過去の罪を認めて、しっかりと謝罪する機会が残されていたのではないか、自死なんかしないで犯した罪の真偽を示し、もし有罪ならば清算することもできたと思ってならないのです。



 どういったらいいのでしょうか、空虚なのです。彼の気持ちが、なんとなく分かるように感じるのです。数年前に、三浦氏が本を万引きして逮捕されたことがありました。これだって、あのスリリングな盗みの感触、何となく手が出てしまって、気がつくと盗んでしまっていると言うような感覚が、自分のうちにも潜んでいるように感じてならないのです。彼は犯し、私は犯さないで手を引っ込めることが出来るに過ぎないのではないか。決して、彼に共感したり、彼の犯罪性に『仕方がない!』と同情しようとしているのではないのですが。彼がロスアンゼルスで死んだのに、私は中国の福州に生きている、何かやるせないと言うのでしょうか、じっとしていられないような思いにされているのです。彼の表情を、テレビの中に、写真の中に何度も見て、芸能人のような素振りの中に、強がりを見せていたのですが、彼が心のうちで感じていることが、何となく分かってしまうのです。

 そんな背中合わせに生きて来たように感じられる彼の訃報に接して、この気持ちをどう言い表したらいいのでしょうか。ただ、彼と違った生き方が出来たのは、こんな私を諦めないで、『可愛い!』と思ってくれて、忍耐深く祈り心をもって育ててくれた両親によることを思わされるのであります。ただ心からの感謝を覚えるのみです。とくに、今なお手紙で激励してくれる老いた母への感謝は尽きません(10月17日記)。

(写真は、少年期を過ごした昭和30年代の、人気テレビ番組「月光仮面(http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/92/0000032292/49/img8a4761d7zik5zj.jpeg)」、「ちゃぶ台(http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/14/0000436914/90/imga9e8d030zik1zj.jpeg)」、「お茶の間風景」)

2008年9月29日月曜日

男っぽさ


 中学に入りたての頃、『男は、髭剃り後の青い頬がいいんだ!』と,ホームルームの時間に、《男っぽさ》について、担任のK先生が話されたことがありました。その言葉に触発されて、『どうしたらヒゲが濃くなるか?』について調べてみますと、《ヒゲ剃りの励行》だと言うことが分かったのです。早速、ヒゲを剃り始めたのが中1の時でした。毎晩、風呂に入った時に、父の安全かみそりを、そっと拝借しては剃ってみたのです。髭とは言っても、まだ産毛でしたが、毎日毎日、髭剃りを繰り返していました。『何時か、親爺のように、K先生のように!』と願いつつでした。ところが、父に似ないで、母似の私は、体質的に体毛が濃くないわけです。沖縄とかアイヌの方々は、体毛が濃いのです。ハワイに移民をされた沖縄出身の方を知っていますが、夏でも長袖を着るほどに体毛が濃いのです。それにひきかえ、『自分の薄さは何だろう?』と思ってしまうのです。多分、母の出身が山陰ですから、私も大陸から渡ってきた朝鮮民族の末裔に違いありません。彼らはさほど濃くないと聞いていますので。今日まで何回剃ったことでしょうか。いまだに、担任の言われた、《髭剃りあとの青い男っぽさ》には程遠いのであります。ついでに、胸毛も欲しくて、かみそりで何度も剃ってみたのですが、これまた、なんら効果のないままで過ぎてしまいました。

 それでも青年期になりますと、人並みにヒゲが生えてきたのです。『雅仁、お前が髭を生やしたら、俺の親爺にそっくりだろうな!』と、自分の父親を思い出しながらでしょうか、父がそう言っていました。61才の誕生日を迎えたばかりで父が召されたのですが、それから何年もしてから、父の言葉を思い出して、『ヒゲを生やしてみよう!』と思ったのです。父に見てもらって、喜ばせることは出来ませんでしたが、自分の顔を鏡に映して見て、『これが祖父の顔かたちなのか!』と感心して見入ったものです。祖父に抱いてもらうことは、一度もありませんでしたが、父をひざの間に入れて腰掛けている祖父の写真は、父のアルバムに見たことがありました。痩せ型の細面の祖父に、本当にそっくりだったのです。自分では悦にいっていたのですが、周りの評判がよくなかったのでしょうか、間もなく剃り落としてしまいました。


 

 ある時、アラブ系の一人のアメリカ人で、アフリカで事業を展開していた方に出会いました。元ボクサーで斜視でしたが、声が素晴らしい、実に魅力的な男性でした。彼に憧れていた私は、また彼に真似て髭を付けたのですが、彼の様にはならずじまいでした。結局、『アテンション・プリーズのパフォーマンスね!』と、髭嫌いの家内のことばに負けて、すぐに剃り落としてしまったのです。

 先日、友人宅でお会いした中華系アメリカ人のご夫人に、『ありがとう!』と、家内が言いましたら、"Don’t touch masutache "と、ことばが返って来ました。なんと、日本語の『どういたしまして!』の駄洒落でした!それを聞いていた私は、彼女の顔を、「しげしげ」と見てしまいました。どうも日本人との交わりが彼女にあるようで、そのユーモアを楽しませてもらったのです。

 K先生が言われた《男っぽさ》とは何だったのでしょうか。東大出の秀才で、すこしも威張った風に見せなかった方でした。私の憧れた鶴田浩治や高倉健やジョン・ウエインのような男性くささはなかったのですが、『いつか、K先生のような教師に、しかも社会科の教師になってみたい!』と思わせたほどの方でした。ですから外見上のことよりも、内面の建て上げについて多く話されたのですが、聞いた中一の私にとっては、「頬の青さ」は大きな挑戦であったわけです。そんな日々が、まるで昨日のことのように思い出されてきます。やっぱり、しみじみとした台風一過の秋の昼過ぎであります。

 

(写真は、在学当時の母校の玄関(左脇に二宮金次郎の銅像がありました)、現在の正門です)

2008年9月28日日曜日

美味しかった天丼を孫たちにも!


 「ヴェニスの商人」、「難波商人」、「甲州商人」、「近江商人」と言う言い方があります。物を仕入れて、それを必要とする人に売って生計を立てる人を「商人」と言います。商いの世界で、模範的な商業倫理を持っていたとして、高く評価されていて、映画にもなっているのが、行商で名を馳せた「近江商人」でしょうか。


 商才のない私でしたが、30年ほど前になるでしょうか、4~5日の会期で行われた大会に参加した時、受付の横で、小さな店を開いたことがありました。『参加者の便宜を図っていかがですか!』と、頼まれたのです。知り合いから果物や菓子や雑貨用品を仕入れて売りましたら、結構な収益を上げることが出来たのです。その収益金は、大会の運営費に寄付したのですが、『商売って、上手くやると驚くほどの収益を上げられるのだ!』と驚いたことがありました。『もしかしたら、商才があるのかも知れない!』と思わされたのです。よい場所に店を構え、人の必要を見抜いて商品を並べ、よいものを薄利で売るなら、きっと収益に欠けることはない、と言うことを学んだのですが、商人になろうと思ったことは一度もありませんでした。




 私の父の友人が、果物商されていて、同業者の組合長をされていました。戦争が終わって、着の身着のままで帰ってきた兵士たちに、リヤカーを轢いて、野菜や果物を売って歩くことで、生計を立てる道を勧めたのです。その開業資金を貸与して上げたそうです。朝早く市場で、持ち金で仕入れをし、轢き売りをして得た収益で、妻子を養い、子女に教育を受けさせるように自立を促したのです。小さく商いを始めて、店を構えた八百屋さんたちが、市場の中を歩いている父の友人に、深く頭を下げている光景を何度も見かけたことがありました。戦後の地方都市で、自分の儲けではなく、人の家庭や生活の建て上げのために尽力されたことは、新聞記事にこそなりませんでしたが、素晴らしいことだと思わされたです。この方が、『雅ちゃん、天丼でも食べようか!』と誘ってくれて、何度もご馳走になったことがありました。その柔和なおじさんの顔が、思い出されるのです。


 商売の順当な儲けと言うのは、2割か3割ほどが上限ではないでしょうか。5割や倍儲けは邪道なわけです。今日日、「近江商人」泣かせの米商人の不正がマスコミによって槍玉に挙げられています。事故米の不正流通が、病人食や学校給食にまで使われているのだそうです。彼らは、それを食べることはないのでしょう。自分の子どもや孫たちには、よそで買ってきた米を食べさせるに違いありません。他人の子ならよいのでしょうか。そういった商業倫理観が、いえ人間倫理観と言うべきでしょうか、これがまったく欠落してしまった現代社会を、憂うるのであります。ハムも牛乳も鰻も、もう何もかも「純正品」がなくなってしまったようです。本来なら、正直な人こそが、商人になるべきなのにです。順当で正当な儲けで生きていくのは当然だからです。「儲け」が先行してしまうと、商いが荒れてきます。心に不正が入り込んでくるからです。正直な商人が、ほとんどなのですが、わずかな「悪徳商人」の商売に、飽きないでいたいものです。




 今日日、何を食べたらいいのでしょうか。食料自給率の低いわが国で、成長盛りの孫に何を食べさせて上げられるのでしょうか。ユダヤ民族に、「水の癒し」の故事が残されています。ある街に、なぜか流産が多発していました。その原因を探りますと、住むには素晴らしい環境だったのですが、水が悪かったのです。それで、一人の人が、「新しい皿に盛った塩」を用意するように語ります。彼はその塩を、水の源に投げ込むと、すぐに水が癒されてしまったのです。その後、その街には、まったく流産が起こらなくなったというのです。としますと、調理した食物に、「塩」を投げ込んで、毒を癒すしかないのかも知れませんね。そうしたら、毒を飲んでも害を受けないですむのではないでしょうか。塩を用いる前に、ただ私が願うのは、4人の孫たちの次世代のために、正直な商い道・商法が回復されて、「安全な食材」の流通を願ってやみません。何時か、あの美味しかった天丼を、孫兵衛たちに安心して食べさせて上げたいものです。


(写真は、「行商姿の近江商人(http://www.biwa.ne.jp/~tenbinst/shonin/index.html)、「八百屋の店頭(http://www.ashinari.com/2008/08/31-007341.php)、「多摩川の水源」です)

2008年9月25日木曜日

父帰る


 菊池寛が、「父帰る」という小説(脚本)を書いています。明治40年頃の家庭を舞台にしていますから、私の父の生まれる3年ほど前のことになります。家出した父親の二十年ぶりの帰還、それがもたらす家庭内騒動といった筋書きです。私は、何度か家出をして野宿をしたことがあります。旧国鉄の引込み線に停車している貨物列車の車掌室にもぐりこんだり、大きな木の下に藁で寝場所を作って寝たり、防空壕の中で過ごしたこともあります。意地を張ったのでしょうか、子どもなりに家に帰れない事情があったからです。でも連泊することはなく、翌日には、「子帰る」で父の赦しを受けて家に戻りました。ところで、私の父が家出をしたことなど、一度もありませんでした。がんばって育て上げてくれたのです。

 新宿、神田、浅草橋に会社を持っていた父は、夕方になると、手に何か土産をつるして帰って来ることがたびたびでした。私たち四人兄弟にとっての「父帰る」は、美味しいソフトクリーム、ケーキ、カツサンド、あんみつと切り離せない、夕方の味覚であり、楽しみでした。怖かった父なのですが、子どもを喜ばすのが上手な父でもあったのです。家の前の、旧甲州街道の路上で、キャッチボールをしてると、『雅、グローブを貸せ!』と言って、兄たちと遊んでいると一緒にしてくれました。お湯が綺麗で、量の豊富な隣町の銭湯が好きで、一駅電車に乗っては、連れて行かれたこともあります。今日日の週末や春や夏や正月の休みなどに遠出をするような習慣の無い頃にも、渋谷や新宿に連れ出してくれたこともありました。この父は「本物好み」の人でした。『雅、柳川を食べに行こう!』と何度か誘ってくれたことがあります。浅草・駒形の老舗の「泥鰌屋(どじょう)」で、本物を食べる誘いでした。何度も約束してくれたのです。ところが私たちが結婚した翌月、61の誕生日を迎えてすぐに召されてしまいましたから、残念なことに、その約束は反故にされてしまいました。


 

 母と出会った山陰の松江や出雲で、父は青年期の一時期を過ごし、そこで結婚しています。上の兄二人は出雲で生まれているのです。母に連れられて訪ねたことと、学生のときの旅行と、仕事で鳥取に行ったときに足を伸ばしたことがありました。父や母だけにではなく、我ら四人の男の子たちにとっても、山陰の地は格別な土地に違いありません。毎年五月には、出雲の母の実家から、決まって「ちまき」が送られてきたからです。また、なぜか我が家の本籍は、ここに置かれてあったのです。この地方に、「安来節」と言う民謡があります。若くてヤンチャな父の十八番が「安来節」で、お囃子を奏でながら、「どぜう踊り」を踊ったのだそうです。見る機会はありませんでしたが。よくザルを手にしては、「どぜう獲り」にも出かけたそうです。都会育ちの父にとっては、山陰の片田舎ののんびりとした時の流れは、心の傷を癒し、和ませてくれたのでしょうか。



 Jrの浅草橋駅から、そう遠くない隅田川の近くに、老舗の「どじょう料理屋」があったようです。今もあるでしょうか。獲るだけではなく、食べるのも好きだった父にとっては、足繁く通った店だったのでしょう。結婚した息子が船橋に住み始めましたから、御茶ノ水で乗り換えて総武線に乗り込みますと、『あさくさばし、浅草橋、次は・・・』と車内案内が流されています。それを聞くたびに、その父の約束が思い出させられるのです。そろりと降りて、駒形あたりを散策したい誘惑に駆られるのですが、まだ実現しておりません。今度帰国する機会があったら、駒形に足を伸ばして、隅田の川風に当たりながら、「どぜう屋」に入ってみたいものです。「柳川」、これもまた父からの1つの宿題なのかも知れません。



 私の父は、決して模範的な父親ではなかったのですが、私にとっては、たった一人の父なのですから、良いも悪いも丸抱えで、「敬愛する父」であります。一言で言えば、涙もろくって、単純で、短気で、一晩寝てしまうと、翌朝からは新しくやり直せる人だったでしょうか。テレビを観てて、よく涙をぬぐっているのを目撃したことがあります。横になって、幼い日に歌った歌を思い出だしながら口ずさんでいました。巨人軍大好きのスポーツマンでした。父が天上の故郷に帰って、もう四十年近くになりました。二度と帰らない父なのですが、父の召された年齢を越えてみて、『もう少し長生きをして、子供や孫を見て欲しかった!』と思ってしまうのです。「父越える」と言うのは不思議な感覚がするものです・・・・なんだか父が弟のようにも感じてしまうからなのですが。人生短し、秋の風ですね!

(写真は、「山梨県清里の清泉寮のソフトクリーム(http://photozou.jp/photo/show/157896/11847919)」、「出雲平野を流れて宍道湖に流れ込む斐伊川」、「隅田川の2005年夏の花火「(http://sozai-free.com/sozai/00881.html)」「はるかに見える駒形橋(安部照雄氏撮影)」です)


2008年9月23日火曜日

Bucket List (バケツの一覧表)


 五月の帰国の際の、次男の激励は《温泉》だけではありませんでした。映画も見せてくれたのです。東京の郊外のスクリーンを何枚も持つ大型映画館で、数ある中から『うーん!』と唸らせる映画を見せてくれました。それは「最高の人生の見つけ方(原題、”Bucket List”)」でした。

 老境を迎え、それぞれが「癌」を告知された二人の男性の物語でした。一人は、菜っ葉服を着て、長らく自動車整備工として勤勉に働き、妻を愛し、子どもたちを育て上げてきたアフリカ系アメリカ人、もう一人は、敏腕の実業家で資産家、家族を犠牲にしてきたことが伺える白系アメリカ人でした。この二人が、同じ病院の同じ病室で、入院して出会うのです。病院以外では、決して接点を見い出すことなどない二人なのですが、余命わずかな二人が、不安を胸に入院した同じ病室で、不思議な出会いをするのです。自分の夢よりも家族の幸せを願いながら働いてき たカーター、お金だけは有り余るほどあるのに、家族はまったく見舞うことがなく、ただ秘書だけが事務的にやって来るのみのエドワード。


 

 治る見込みの無いガン告知を受けた二人を、かたく結びつけたのは、二人で書き込んだ1枚のリスト、”Bucket List (自殺者は首に縄を掛けてからバケツを蹴ってことに及ぶところから、死ぬまでにしておきたいことを書き出すことを言っているようです)”の実行でした。生きている間にしておきたいことを実行していくのです。「美しく荘厳な風景を見ること」、「見知らぬ人に親切にすること」、「涙が出るほどに笑う こと」……とカーターは書き上げました。「スカイダイ ビングをすること」、「ライオン狩りに行くこと」、「世界一の美女と過ごすこと」……と、エドワードが付け加えたのです。そのリストアップした課題を実現 するために、エドワードの自家用ジェット飛行機に乗って、「世界旅行」に出かけるのです。『や り残したこと!』って意外とあるのではないでしょうか。それを生涯の最後に叶えられるのですから、この二人は恵まれているわけです。人生に悔いを残さない で、『最高の人生だった!』と心の底から喜んで死んでいこうとしたのです。実は、二人の残された時間は半年でした。ハラハラするような場面の中に、微笑や 苦笑いがあり、厳粛な死の現実を、ユーモアーをこめて描いた秀作でした。結局、カーターがエドワードの死に逝く様を見送るのですが。演じたジャック・ニコルソンもモーガン・フリーマンも、実に渋味ある好演でした。



 『う~ん、自分だったらは、どんな「Bucket List 」を書き上げるのかな?』、と映画を観ながら考えていたのですが。最近、この映画のことを思い出して、しばし考えてみました。1つは、長女の結婚式に列席すること、2つは、次男の結婚式に列席すること、3つは、孫たちと遊ぶこと、4つは、遼寧省撫順の近くの「平頂山」にある記念館に花輪を携えてお詫びに行くこと、5つは、ネッカー河畔の街ハイデルベルクに旅行すること、6つは、母と義母の百歳の誕生会に出席すること、7つは、長兄と親しく交わりをすること、8つは、船に乗って日本海を渡って日本に行くこと、こんな8つのことを考えてみたのですが。死の宣告なしの思いですから、現実味に乏しいかも知れません。これらは、百才になるまでには実現できるでしょう。もちろん食べたい物、読んでみたい本、訪ねてみたい街、会ってみたい人などもありますが。でも「癌告知」を受けたら、覚悟を決めてカーターとエドワードのように、人生のしめくくりをつけられるでしょうか。リストアップされた課題についても、どれを優先順位の最初におくことになるでしょうか。いつでも死に逝く心備えをしながら、生きるつもりですから、健康管理にも心配りをしないといけないようです。



 自分のリストを、一緒に書き上げる人生最後の友人と出会えるでしょうか。それは、いつ、どこででしょうか。彼らのように病院でしょうか、それともバス・ターミナルかスター・バックスの外のベンチでしょうか。友をえ、行き先がきまったら、きっとタクシーか公共のバスに乗って行ける範囲で、行けるところまで行くことになるでしょう。そのほかは個人的にしなければならないことなのかも知れません。『しまった!』とは言えないのですから、そう思える間にしておかないとならないようですね。おっと、、、まだしなければならない日常の義務があるのです、これに専心しないと。あの二人のなきがらが、エベレストの頂上の石くれの間に置かれていましたが、私の場合は、この数年、水分を補給して養ってくれた「闽江(ミン・ジアング)」の流れに注いで、七つの海に連なる「東シナ海」に流して欲しいと願うのですが。

(写真は、エヴェレスト(http://yeti.justblog.jp/photos/8000m/)、主演の二人、モーガン・フリーマン氏、中国の瀋陽を走る「公交車」です)


2008年9月21日日曜日

息子の激励


 机の前の壁に、「中華人民共和国全図」が貼ってあります。東の端に日本列島を見つけることが出来ますが、この近さゆえに、古来、人や文化の交流がなされてきたことが、当然のように納得させられるのです。間には、朝鮮半島があり、台湾もあります。南には東南アジア諸国があります。さらに福州市を含んだ近辺の地図も机上にあります。「永泰県」が市の西部に位置しているのですが、そこに「温泉」があることが記されてあります。「公交車」と呼ばれる公共バスで、市内の「西站(xi zhan 西バス・ターミナル)」から1時間ほどのところにあります。見るにつけ、温泉で弱ったからだと痛んだ心とを、幾度となく回復された私は、『う~ん、行ってみたいな!』と願わされてならないのです。



 この5月に、「鼓膜再生手術」で帰国し、初診と手術まで三週間ほどの待機期間がありました。この時、次男が、『親爺をはげまそう!』と思って、大きな温浴施設に招待してくれたのです。『お湯につかる!』と言うのが入浴なのですが、普段、シャワーしか使えない環境にありましたから、思いっきり手足も心も伸ばすことが出来るのは、なんともいえない快適な経験、開放感を味わえて、『これぞ日本!』と感じさせられた次第です。岩盤浴、サウナ、ジェット水流、薬湯、香湯と、さまざまな工夫がされている施設に、かわるがわる入るのですが、どこに身をまかすか迷うほどでした。この何年かの間に、雨後のたけのこのように、東京郊外のそこかしこに出来た温浴施設ですが、現代の「日本人の疲労度」の高さを感じざるをえませんでした。しなければならないことに追われるような日々の真っ只中で、すべきことをしばし脇に追いやり、思いっきり緊張感を緩めて、裸になれるのは、日本独特の娯楽、いえ文化・伝統なのでしょうか。箱根や鬼怒川の温泉に入るのは、江戸の娯楽だったのでしょうか、この二十一世紀になっても、日本人の心の奥底には、同じ思いがあるからなのでしょうか。そういえば、顔も体も、緊張感を解かれて、『うーん、いいな!』と、みんなが納得しているような顔をしていました。もちろん自分もですが。



 あの時、夕食を一緒にとったのですが、『あれもこれも』と、しばらくぶりの日本料理を注文してくれて、彼とガールフレンドと三人で余すほどで、満腹になってしまいました。『こんな贅沢は、久しぶりだなあ・・・美味しい!』と思いながら、次男の好意に、『有難う!』と感謝して楽しむことが出来たのです。そういえば今、日本は秋たけなわですね。ガソリンが高くなってはいても、「行楽の季節」を迎えているわけです。今は、時々、インターネットで検索して、信州や東北の温泉を見ることがありますが、地図で見るよりも、写真や交通順路や解説がついていますし、近隣の観光地の紹介もなされています。今度、いつ帰られるか分かりませんが、帰ることが出来たら、また次男が、どこかへ連れて行ってくれることでしょう。そういえば親爺が風呂好きでした。『生きていたら湯河原あたりで、おんぶして温泉にいっしょに浸かって、背中を流して親孝行の真似をしてあげれたのになあ!』、と思ってしまう大陸の秋です。そういえば次男がご馳走してくれた料理の中に、秋刀魚があったようですが!今がたけなわなのでしょうか。


(写真は、上は、アジア地図、中は、4年前に鍵盤手術とリハビリが終えた後、訪ねた湯布院の友人の別荘から見えた「由布岳」、下は、39才の時に大きな手術を終えてからしばらく療養した増富ラジウム温泉の「金泉湯」の浴槽です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。