2008年9月19日金曜日

お母さんを誇りに思っていた彼



 先ほど『覚えてる?』と、家内が読んでいる本のページの見開きを見せてくれました。そこに懐かしい人の名前がありました。12年ほど前になるでしょうか、アメリカの西海岸のポートランド近郊にある大きな会社を、15人ほどの友人や仕事仲間と家族も含めて訪問したことがありました。その社長の名前が出てきて、懐かしく思い出したのです。『日本から来た視察団、お客さま!』ということで大歓迎をしてくれました。こういったことは実に珍しいことなので、驚きましたから、いっそう印象深く思い出されるのです。




 街の大きなホテルの部屋をとってくださって、滞在期間中に食べたり使ったりするようにと品々がカードを添えて、”OREGON”と印字されている布袋に入れて、各部屋のテーブルの上に置いてありました。それは社長夫人が個人的に準備してくださった特別な好意であることを、後で知ったのです。会社の来歴と現況、スタッフの紹介、工場や施設案内、訪問した一人一人の自己紹介、懇談会、直筆の本の寄贈などが三日間ほどの日程の中に組み込まれていました。もちろん、観光もさせてくださいましたが。日本に強力な企業が建て上げられることを願って、創業期の苦労話もありました。彼の事務室に、15人ほどが座っての談話もありました。実はこの社長さんは、白血病を病んでおられたのです。今は、すでに召されておられて、新しい方が責任を取っておいでです。その彼が、遠くから訪ねてくれたと言う理由で、《キモセラピー》の治療を朝一番で終えて、事務所に見えられたとき、大きな手と体とで握手とハグをしてくれたのです。その様子を見ていた男性秘書が、チラッと難しい表情をされているのを見てしまったのです。彼は、アルコールを含ませた布で、机やいすを拭いていました。キモセラピーの治療後は、手に触れるものや通気に注意しなくてはいけないのです。握手やハグは禁物なわけです。理由を言われて避けられればいいのでしょうけど、彼は歓迎の意を体いっぱいで表現してやまなかったのです。




 そういえば、彼の会社のスタッフの一人の方は、若いときに、隣の町で会社を始めたのですが、難しい問題が起きると、この社長さんに相談をされていたようです。でも会社は倒産してしまったのです。そうしましたら、この社長さんは、好待遇で彼をスタッフの一員に招いたのだそうです。失意の彼を見過ごすことが出来なかったからです。そういった優しさがあって、彼の能力が引き出されて、有能な協力者となって貢献していたのです。滞在中、彼がスーツではなく、ラフなセーターを着て、日本のステーキハウスの晩餐に来られたことがありました。私たちの歓迎会でのことでした。『これ年を取った母の手縫いなんですよ!』と言っていました。有名ブランドの製品を着るべき大会社の社長さんなのですが、ちょっとちぐはぐで、お世辞にも体に合っているとはいえなかったのです。それを承知で、母親を誇るかのように、すんなりと着こなしておられたのです。『なかなか出来ないな!』と思わされて、この企業の祝福の秘訣は、こんな小さなところにあるのだろうと思わされたのです。つまり、人を大事にすると言った生き方でしょうか。この社長さんの友人も同じテーブルについていたのですが、『大会社の社長は、高級ブランドの背広を着て、ヨーロッパ製の高級車に乗るのですが、彼はどちらにも頓着が無いんです!』ともらしていました。驕りとか誇りとかいったものを持たない彼に、すっかり魅せられてしまいました。



 企業の魅力よりも、人となりの魅力のほうが、ずっと印象に残るもののようです。その頃、二人の娘が、ポートランドの南の方の大学町で勉強をしていました。ある日、彼女たちが訪ねてきて、この社長さんと交わることも許されたのです。彼女たちも歓迎されて満足だったようです。あの時も秋でした。コロンビア川の鱒の養漁場に連れて行ってくれたり、ポートランド市内の観光スポットも案内してくれました。日本の大きなスーパーがあって、バス観光のときの昼食は、わざわざ特注した日本食の弁当で、納豆まで用意してくれました。

 『懐かしいな!』と人を思い出すのは、異国で秋を迎えているからでしょうか。それでも、まだ日中は真夏のように暑くて、汗が噴き出してきます。11月までは夏のようだったのを昨年経験して、まあ覚悟しているのですが。彼の書いた本を一冊、こちらに持ってきていますので、少しずつ読んでみようかと思っている、「読書の秋」でもあります。

《写真は、「オレゴン大学」http://www.senshu-u.ac.jp/School/eibeibun/abroad/imoto.html、「マウント・フッド」、彼の会社の一角、赤い所がオレゴン州です)


2008年9月17日水曜日

しののめ



 今日は9月17日、「中秋節」も過ぎ、飛ぶ赤とんぼや空の色や吹く風に、秋の気配を感じさせられます。このブログの題名を変えてみました。「しののめ」とは「東雲」のことで、夜明け前の一時を言います。辞書には、『東の空がわずかに明るくなる頃。夜明け。あけぼの・・・ [古代、住居の明り取りの部分に篠竹を編んでいたが、その篠竹の目が明るくなる意から、という]・・・大辞林』とあります。篠竹の編み目から、朝の光を感 じるとは、昔の人の情緒の豊かさには驚かされます。商館や領事館、外国人が始めた語学学校や大学、彼らの住宅の廃屋の残る、「闽江(ming jiang)」の二股に分かれた中州の緑の濃い「仓山区(cang shan qu)」に住み始めて二ヶ月が過ぎました。



 篠竹の網の目からではありませんが、その東雲のわずかな陽光を窓ガラス越しに感じて、わくわくした気持ちで一日が始めれたら、きっと仕合わせを実感できるに違いありません。泣いて落胆して過ごしても一日、楽しく喜んで笑って過ごしても一日、だったら、希望や夢や幻を胸いっぱいに膨らませて、今日の一日を生きてみたいと思うのです。名の知らない鳥が近くのカジュマルの樹にやって来て、毎朝、

 『朝だよ!素晴らしい一日が始まるんだ、用意はいいかい?』

と言っているようです。数日前は台湾との間を台風が北上し、強い風と雨がありました。今朝は、初秋のたたずまいがして穏やかです。家内が、朝餉の用意をする音が台所からしています。  

 さあ、素晴らしい一日が始まりました!

(上の写真は、天津の我が家の窓から写した朝日、煙突は冬季の暖房のために石炭を燃やすための煙突です)


2008年9月15日月曜日

南信の「蕎麦がき」恋し


 中央本線に乗って、上諏訪で降りますと、抜けるような初秋の空がありました。空気も澄んで美味しく、山も野原も川も、『実にきれいだ!』と思わされたのです。バスに揺られて高原を行きますと、『日本ってなんて美しい国なんだろう!』と、まだ十代の私は感じること仕切りでした。そうして信州が大好きになった私は、結婚しても、妻や子どもたちを連れては、いくどとなく訪ねたものです。

 いつでしたか、その諏訪湖側からでない、佐久から車で、白樺湖に行ったことがありました。家内と二人、週日のことでしたから、ほとんど観光客がなく、車の行き来も少なかったのです。お土産屋に寄って品定めをしていても、実にのんびりしていました。店主のご夫人が、『どうぞ!』とお茶を入れてくれて、漬物も勧めてくれたのです。紅葉の秋でした。そんな一時をともにして世間話をしたのです。土日の週末では、そのような寛いだときは持てないに違いありません。のたりのたりと動く時を楽しませてもらいました。

 それから何年もして、次女が結婚した夫の仕事場が、南信・飯田市の近くの町の高校でした。英語の補教師として赴任したのです。時間を作っては、何度、彼らの家を訪ねたことでしょうか。その教員住宅と言うのが、水洗ではなかったのです。強烈な臭気のする家に、2年ほど彼らは住んでいました。婿殿は、アメリカ北西部の出身でしたが、日本の旧式のトイレに我慢して、一言も不平を言いませんでした。私の母と一緒に訪ねたときに、近くの旅館に泊まったことがありました。彼らと一緒に食事をしましたら、鯵の干物、味噌汁が膳の上にありました。それを、『美味しい!』と言って、一緒に食べてくれたのです。そういった文化の違いを超えて、順応して生きていこうとする彼の生き方に、『えらいなあ!』と思わされ、彼への感謝と評価とが、なおさら大きくなったのは当然のことでした。



 彼らの所に行くには、飯田で高速を降りて、天竜川沿いを小一時間ほど走ったでしょうか、諏訪地方とは大分違った風情が感じられました。近くには、満蒙開拓で多くの家族が移住した「阿智」と言う村がありました。一族や一家の離散と言った辛い歴史のある村ですが、信州人の粘り強さや底力を、何となく感じさせられるようでした。中国の残留孤児の帰国を促したのが、この村で教師をされていたお坊さんでした。この方は、多くの子どもたちと共に開拓に行った過去をお持ちで、やむなく残留せざるをえなかった誇示のみなさんの帰国の働きに献身されたのです。故郷を後にしたみなさんは美しい山河を思し出しては、厳しい農地の開拓に励んだのでしょう。今では、コンビニができ様変わりした村には、『そんなことがあったのだろうか?』と思い出させるものは、村からも村人の心からも消えつつあるのです。



 彼らの所からの帰りに、国道を走っていた時、お腹がすいた私は、『そばを食べよう!』と家内を誘いました。伊北ICの近くの国道沿いに水車のある小奇麗な蕎麦屋でした。品書きに、「蕎麦がき」とありましたので、懐かしく注文しましたら、プリンのように柔らかくて、木の実のタレがかけられている、実に美味しいデザートでした。これが癖になった私は、娘たちが飯田に越し、孫が生まれてからも、訪ねて帰るたびに、この店に寄ることを「定番」にしてしまったのです。いつの間にか・・・彼らの訪問か、蕎麦がきを食べるためか・・・目的がずれ込んでしまったかのようでした。『どこに行きたい?』と聞かれれば、『信州!』、『何が食べたい?』と聞かれたら、『水車屋の蕎麦がき!』と答えることでしょう。いつでしたか、二代目が作ったのを食べたときには、『うーん・・・・!?』と言わざるをえませんでした。初代は、元気でしょうか、どうも秋になって食べ物と人とが恋しくなってきたようです。


(写真は、県立下伊那農業高校・農場の航空写真、中は、阿南町の「ゆうゆうらんど」、下は、箕輪町の「水車屋」の店内です)

2008年9月12日金曜日

人生修行


 子どもの頃に、小学校の運動場に映写幕を張って、映写会がもたれていました。美空ひばりの「りんご追分」が上映されていたのを覚えています。スクリーンの表と裏から両方から見るほどの盛況だったのです。また「旅芸人」がよく町にやって来ました。甲州街道の要所にあった、大きな神社の境内に小屋がかけられ、木戸銭(入場料)を払って観劇して、泣いたり笑ったりしたものです。まだ時がゆっくりと動き、世の中が、せわしくなかった時代だったのでしょうか。そういった劇団は、町から村へ、村から村へと旅をしながら、テレビの無かった時代の庶民の娯楽だったのです。小遣いを握っては出かけたのですが、親は黙認してくれました。それででしょうか、ちゃんばらごっこをして遊び、テレビの放映が始まると、「時代劇」にチャンネルを廻しては観て楽しむようになったのです。われわれの世代は、ジャズやアメリカ映画も好きですが、「原風景」とでもいうのでしょうか、子どもの頃の体験を、どうしても引きずっていて、結局は、おじさんやおじいさん趣味に回帰してしまうのでしょうか。


 『良い人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行。難儀な時やるのが、本当の仕事!』と言うことばを聞いたことがあります。・・・世の中には二種類の人がいる。いい人だけではなく、悪い人との出会いも避けることが出来ない。避けられないのならその出会いを嫌わないで、「修行」の時と心得て交わりを持て・・・そう勧めているのです。2005年に、105歳の長寿で召された「最後の瞽女(ごぜ)」と言われ、「人間国宝(重要無形文化財)」の小林ハルさんが言われたことばです。この「瞽女」について、次のように解説されています。『三味線をこわきにかかえ、門づけ歌や段物・くどき・はやり歌などを歌い歩いた盲目の遊行芸人 ″瞽女(ごぜ)″の組織は、昔は関東・北陸から九州にいたる広い地域にわたって随所に見られたというが、越後に本拠におく瞽女集団が最も発達し、かつ近年 まで存続してきたということは注目すべき現象であり、雪国という風土や社会環境のしからしむるころが大きいと思われる。……鈴木昭英著「刈羽瞽女」(長岡市立科学博物館研究報告№.8 昭48)」とです。かつての日本では、目や耳などの体の不自由な子が生まれると、親に捨てられてしまう事例が多かったのです。そういった子どもたちに心を向けて、技術を身につけさせ働くことのできるような授産施設など無かった時代、親や奇特な方が、女の子に三味線を習わせたり、按摩の技術を教えたのでしょうか。彼らは、それを身につけて、差別や偏見の中を逞しく生きて行ったのです。





 私の親爺の日記帳の中に、『順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ!』とありました。子どもである私たちに、そう言い残したのです。『雅、人生晴れの日ばかりじゃあないぞ。雨も雪も闇もある。陽がさんさんと降り注いでいたら、それ嬉々として喜ぶんだ。太陽の恵みに感謝しながら。鉛のような分厚い雲で天が覆われていたら、静かに自分の心中を覗き込んでごらん。これまで語った言葉や行いが、よかったか悪かったかを反省して、次には誤らないようにして生きていくんだ!』と言ってくれたのでしょうか。親爺もハルさんも同じことを言ったことになります。「発想の転換」が、新しい発明を生むための一つの大切な一歩だと言われています。としますと、私たちの人生修行だって、この「発想の転換」をしていけば、もっと楽しく、意味のある時を生きることができるわけです。

 


 ハルさんは1900年、新潟県三条市の農村に生まれましたが、生後間もなく、白内障に冒されて、目が不自由になったのです。彼女には、厳しく自活の道を考えてくれた母親、二歳の時に死別し愛してくれた父親、そんな彼女を厳しく稽古した親方、彼女の優れた技術を妬みいじめる姉弟子がいたのです。そのような中、辛抱強く生きることが出来たのは、お母さんとお父さんとに愛された記憶があって、それがハルさんを支えたのでしょうか。辛い経験を「人生修行」に変えてしまう能力は、何と明るくって、積極的な生き方であり、そのように生きた人だけができる勧められることではないでしょうか。『雅、鼻から息をする人間に信頼を寄せてはいけないの。人間の限界を知った上で、その人を信じて上げなさい!』、これは、私の母の処世訓の一つでした。世の中、西に行っても東に行っても、「修行の機会」があふれているのです。まあ一生学びなのでしょうか、まだまだの域に甘んじている、紺青の秋空の下、福州で生きて修行中の私であります。


(写真は、船の軌跡の向こうは新潟港「新日本海フェリー『らいらっく』乗船記http://、www.journey-k.com/~takaboo/funatabi/jyosenki/lilak.html、中は、本間章子著「小林ハル」求龍社の表紙、下は、「瞽女」の旅姿http://blog-eda.net/gozeuta/、

2008年9月11日木曜日

海外雄飛


 「海外雄飛」は、現実逃避なのでしょうか、それとも、島国の小国に育った日本人が、根っからに持っている「夢」なのでしょうか。それとも我侭な自分の責任逃れで、外の世界に憧れたのかも知れません。この夢は結婚しても、子どもが与えられても、私の内では消えなかったのです。十七で、南半球のアルゼンチンへの移民を考えたことのある私は、あるとき、上智大学で社会人のための継続学習の夜間講座が開講されているの聞きました。その1つに、「インドネシア語講座」があって、早速、受講願いを提出したのです。かつて日本軍が石油やゴムなどの資源を求めて進出した過去のある国でした。謝罪の意味もあって、私は貢献したかったので、学び始めたのです。でも、ジャカルタへの門は開きませんでした。それからしばらく経ってから、『アフリカで一緒に働かないか!』との誘いもありました。これも、アメリカ人実業家から引き継いだ責任ある仕事についていましたので、叶わずじまいでした。そのように外に目を向けながら生活しているうちに、一昨年、中国の天津への門が開かれたのです。昨年春、学校の休みに、旅行で訪ねた福州の友人が、『こちらにに来ませんか!』との誘いに応えて、昨年八月、勇躍やって来たのです。

 福建師範大学の海外教育学院で、中国語を学び始めましたら、この省から海外雄飛で出かけた華僑や華人の子弟でしょうか、インドネシアからやって来られた留学生が20人近くいたのです。今年は、40人もの方々が来られたと聞きました。父や祖父のお国言葉を学んでいる彼女たちですが、家では文字は覚えないで、福建省の方言を使うのだそうです。そんな背景の彼らの標準語学習の理解の早さに、まったく違う言語を学ぶ私たちとの間には大きな開きがある理由が分からされた次第です。同じ宿舎には、インドネシア政府の高官に派遣された若い女性がいました。今は北京に行かれていますが、なかなか賢い方で、私の長女と同い年で、とても親切にしてもらいました。



 ここ福建省の沿岸部は、「華僑のふるさと」と言われています。隣町の福清市や、闽江(ミン・ジアング)の下流の町の長楽市などからは、多くの人々が、一人で家族で、世界に向かって出かけて行った町なのだそうす。600年ほど前になりますが、「郑和(チェング・フウ/1371~1433 )」と言う、雲南省出身の航海家がいて、南京から就航した彼の船団は、 ここ闽江の河口付近の町に寄港して、インド、アラビヤ半島、アフリカ、さらにはアメリカ大陸などに出かけています。コロンブスよりも早く、郑和は、アメリカ大陸を発見していると、最近の研究成果が伝えているようです。春先に、闽江の流れの脇に、彼の記念館や記念像があって見学したのですが、遥か彼方に目を向けている彼の眼差しが印象的でした。その影響でしょうか、海沿い、川沿いに生まれて育った青年たちもまた、新天地を求めて海外雄飛に活路を見付け出そうとしたのでしょうか。

 六年ほど前になりますが、『中国人が一番住みたい町!』シンガポールに、長女を尋ねたたことがあります。そこに華僑たちが住んだ地域が残されてあって、記念館を見学をしました。今のようにアジアで誇り高い豊かで綺麗な街でなかった、100年も200年も前の生活ぶりを伺い知ることが出来たのです。初期移住者の苦労は、大変だったようです。イギリス統治の時代、日本統治の時代を過ぎて、独立を勝ち取ったこの街は、中華民族の国家ですから、福建省人にとっての憧れも一入なのでしょうか。この華僑や華人たちは、勤勉に働き、世界中の大都市に、「中華街(チャイナ・タウン)」を形成していったのです。そういった彼らの故郷にある、21世紀の子孫たちもまた、アメリカや日本への留学を切望しているのです。とても外国語学習熱が高まっているのではないでしょうか。



 さて、インドネシア人のことですが、彼らの目に、日本人が戦争に敗れた後に、「卑屈」になってしまっているのを見て、『そうではない!』と言っているのだそうです。日本人がやって来るまでのこの国は、オランダの支配下にあって、実に惨めなを送っていたのだそうです。有色人種のアジア人を、彼らは、まるで奴隷ような扱いをしていました。ところが、『日本人は、白人の国家に向かって銃を取って立ち上がって、アジア人の意気を示してくれた!』と、彼らは高く評価するのです。『日本が起たなかったら、欧米諸国から決して独立することは出来なかっただろう!』と言い、『独立への願いを喚起させてくれた日本と日本人!』と言うのが、彼らが見る日本人なのだそうです。虐げられた被征服民に甘んじなければならなかった彼らには、曙のような輝きが、私たち日本人にはあったことになります。それなのに、虚脱感に圧倒されてしまった私たちは、卑屈になって、自信を失ってしまったのです。いったい、どうしたことなのでしょうか。

 インドネシア人に、そのように高く評価されるのですから、その評価に立って、自身を取り戻したいものです。高慢も傲慢もいけません。同じように卑屈も自信喪失も、同じようにいけないのです。高慢でない「誇り」、卑屈でない「謙遜」を身に着けて、二十一世紀の日本の青年には、世界に向かって雄飛していただきたいのです。金儲けではなく、友好と貢献のためにです。 

(写真は、長楽付近の闽江、中は、闽江河畔の「郑和」の像、下は、インドネシアの海http://img.4travel.jp/img/tcs/t/album/lrg/10/01/87/lrg_10018726.jpgです)

    

2008年9月9日火曜日

『袖刷りあうも他生の縁!』


 一番嫌いなのは、「在日朝鮮人」という蔑称です。小学校の同級生に、朝鮮半島からやって来られた方々の子でしょうか、孫でしょうか、何人かの級友がいました。近所にも何家族かおいででした。仲のよかった友人・隣人たちです。大学の同級生で、よくノートをとってもらって、青梅や立川の図書館で、ノート写しを手伝ってくれた同級生も、そうでした。彼らは決して卑屈ではありませんでしたが、優秀な韓民族なのに、日本という狭量で島国根性の国情の中では、常に異端視され、迫害され、差別されてきた方々です。『恩を仇で返す!』とは、この人種的偏見であります。何も持たなかった我らが祖先たちは、米作りから機織から鋤や鍬や刀の鍛冶、豆腐や醤油作り、文字や紙や書を教えてくださった恩人であります。日本の技術水準の高さを世界に誇るなら、最初の指導は、韓民族のみなさんの大きな犠牲によったことを忘れてはならないのです。やって来た彼らは、母国に帰ることを断念して、この地に帰化してくださったのです。

 生まれた土地にも、引っ越して育った土地にも、「巨摩」とか「多摩」とか言った地名がついていましたが、民俗学的には、「高麗(コウライ)」に源があると言われております。日本の地名の中にも、そう言った朝鮮半島の文化的・産業的な極めて緊密な関わりがあることを、民俗学者たちは指摘しているのです。それなのに、何ということでしょうか。『○○人はかわいそう、戦争のためにお家を焼かれ・・・』、『こちゅせん、こちゅせん ひろおたよ ピールのふたて ぱかみたよ・・』と言った戯れ歌を歌って、侮辱してきたのです。いつでしたか、大きな企業の社長の講演会で、『私が写真を撮ったのは、「ばかチョン・カメラ」でして・・・』と、臆面もなく言っていました。かわいそうなのは、そんな歌を歌う日本人で、濁音の発音が難しい言語形態の韓民族のみなさんを、そう馬鹿にするのです。中国に行って、「四声」の使い分けに苦労して初めて、日本語の単純さを知らされ、漢語や韓語の優越性を知らされるのです。「ばかチョン」の「チョン」は、「朝鮮人」のことを言うのですが、「馬鹿でも朝鮮人でも写せるカメラ」で、どんなにきれいな写真を撮って誇ってみても、意味も分からずに敬そうな言動をする会社の製品は、売れないにきまっています。何年かしましたら、その社長の会社は、倒産したと漏れ聞きました。この韓民族のみなさんには、本当に申し訳ないことであります。



 初めて韓国のソウルを訪問しましたときに、ヨイドという漢江の流れのそばに、大きな会社の建物がありました。34年 ほど前のことで、夜間は灯火管制や外出禁止令がしかれていた時代でしたから、目を見張るような社屋でした。そこを訪問するために、バスに乗っていましたら、一人 の青年が英語で話しかけてきたのです。その会社を訪問する旨言いましたら、彼は、その会社の社員で、『あなたのバス代を、私に払わせてください!』と言わ れたのです。素晴らしい韓日の友好になりますから、その好意をお受けしたのです。素晴らしい青年でした。旅先で、わずかな金銭のバス代でしたが、それは千 金にも感じられるほど、うれしい経験でした。こういった『袖刷りあうも他生の縁!』の出会いに、励まされた私のビジネスも成功したのです。




 実は、私の母の出身は、山陰の島根です。日本海を隔てて、そこはすぐに朝鮮半島であり中国なのです。そこは渡来した朝鮮半島のみなさんが、多く移り住んでくださった土地に違いありません。ですから、朝鮮半島に出自をもたれる方々と、こういった背景の母の子である私は、とても深く関わっていることを血で感じるのです。テレビの草創期に、放映されていたプロレスに、「力道山」がいました。彼の活躍に、ほとんどの日本人が欣喜雀躍したのは、彼が「闘魂の士」だったからだけではなく、日本人の血の中に、彼と同じ血が流れていたからに違いなかったのです。朝鮮半島出身の作曲家や歌手の歌が、日本人の心の琴線に、感情的に情緒的に迫るのは、それと同じ理由に違いありません。だから理解し合い、感謝し合いがら、過去の多くの問題を超えて、素晴らしい関係を保ち続けていきたいものであります。そういえば、「ビビンバ」とか「チジミ」は、私の大好物でした!


(写真上は、朝鮮半島の地図、中は、image.blog.livedoor.jp「力道山」、下は、家内の誕生会の折、韓国料理店からお祝いに頂いたケーキ替わりの「チジミ」です)


2008年9月7日日曜日

赤とんぼ


 耳を澄ますと、もう秋の虫の音が聞こえてくるようになり、然(さ)しもの暑さも、『峠を越したかな?』と思うこのごろです。あの大歓声に湧いた北京オリンピック大会が終わってもなお、余韻のように同じ集合住宅の住民のみなさんの応援の『加油(ジィア・ヨウ)!』の声が、まだ耳の中に聞こえるようです。幾多の苦難の道を歩んでこられた中国のみなさんが、開国以来最大の国家的工程(プロジェクト)に思いを注がれたのです。国や国土や同朋を愛し、他国との関わりが深くされることを願って、この「奥運会(オリンピック大会)」の成功を祈って来られたわけです。出場した選手たちへの応援は、天を突くかのようでした。そのせいでしょうか、素晴らしい成績をあげ、大会自体が成功裡に収束したことを、隣国日本からやって来た私は、手放しでともに喜びたいのであります。『喜ぶ者とともに喜べ!』なのですから。

 さあ、次代を担う青少年のみなさん。この大会の成功を1つの跳躍台にされて、明日の中国のために、そしてアジアのために、さらに世界のために貢献していかれますように願っています。大きく夢を膨らませて、自信をもって明日に向かって、その夢を解き放ち、高く羽ばたいて行かれるように、祈念してやみません。今、その熱気や余韻の残る会場では、「パラリンピック」が行われております。注目度は強くはありませんが、世界中から参加された選手たちの健康と健闘を祈ってやみません。大会の運営に当たられるみなさんの上にも、激励を送ります。

 ボールを追いかけて走り、受けては投げてシュートしていた日々を思い返して、あの頃の青春の血の躍動がよみがえるかのようです。共に猛練習に励み、スタメンの背番号を競った仲間たちの数人が、すでに召されたことを聞くのですが、時の過ぎ行く早さには、改めて驚かされるのです。『少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず』とか、『いのち短し、恋せよ乙女・・』とか、『時間過了很快(時は素早く過ぎていく/中国語)』といった言葉が実感させられるのです。この「スポーツの秋」は、『する!』から『観る!』に代わってしまったようですが、まだまだ、ラケットを握ってバックハンドで打ち返してみたいと思わされてなりません。

 宵闇が迫って、虫の音を耳にしますと、何となく物寂しく感じるのですが、秋は感傷の季節だけではありません。「収穫の季節」なのですから、私たちの精神生活にも、それなりの実りが多いものであるようにと願いたいものです。与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」に、『・・・友を選ばば書を読みて・・』とあったのを思い出しますが、秋の夜長は、読書が似合うようです。また、「短歌」でも詠みたい気分もいたします。友人がよく歌っていた「惜別の歌」は、『別かれといえば  昔より  この人の世の  常なるを ・・・・』 、「初恋」は、『まだあげそめし  前髪の   林檎のもとに  見えしとき  前にさしたる 花櫛の  花ある君と  思いけり・・・』とあって、 七五調の詩なのです。歯切れがよくて、覚えやすく、メロディーにのりやすいので、何十年も前の歌が口から突いて出てしまいます。



 でも何といっても、「赤とんぼ」が一番懐かしいのですが、みなさんの「思い出の歌」は何でしょうか。三木露風は、『夕焼け小焼けの  赤とんぼ  負われてみたのは  いつの日か  十五で姉やは・・・』と詠んでいます。赤とんぼの身になって、怖いお兄さんに「追われて見た」とばかり思っていたのですが、実は、お姉さんに「負われて見た」んですね。私には、おんぶしてくれた姉はいませんでしたが、ちょっかいを出して、その仕返しに叩かれたり蹴られた兄がいました。その兄とは、一緒にアケビをとったり川遊びをしたりもしました。夜の帳が下りる頃まで遊んでいたあの頃を、思い出させる極めつけの懐かしい秋の歌は、やはり「赤とんぼ」でしょうか。

 声援や歓声のやんだ今、福州の町にも、赤とんぼが、そろそろ飛び始めるのでしょうか。きっと、それを見付けたら、『夕焼け小焼けの 赤とんぼ 負われてみたのは いつの日か  十五で姉やは・・・』と歌いだすことでしょう。

(写真は、フォト・ライブラリーhttp://www.photolibrary.jp/service/calc_size.cgi?id=527&size=2、絵は、http://momo-mid.com/mu_title/i_akatonbo.htmの「挿絵」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。