2007年5月5日土曜日

硬軟両面の均衡


 「隠れ・・・・」と言うことばがあるのですが、一時、私は身を潜めて、「隠れジャイアンツ・フアン」をしていました。なぜかと言いますと、巨人軍の選手獲得が、あまりにも金にものを言わせたものであったからなのです。そして、どこのチームでも、三番や四番を打てるバッターを並べ上げるに至っては、もう辟易とさせられました。 『巨人は金ではない。野球愛にあふれたチームなんだ!』と信じていたからです。

 ところが、私の眠っていた獅子を起こしたのは、好きだった藤田さんの告別式で読まれた1つの弔辞を知った時でした。『四番、バッター川上!』とアナウンスがあると、怒涛のような拍手が聞こえたのが、川上哲治元一塁手でした。苦楽を分け合った球友を送る、その川上さんのことばの中に、藤田さんが真の野球人で、妻子を愛する家庭の人で、ユニホームを着ても脱いでも「紳士」であったことを、『ありがとう!』の思いを込めて明かされたのです。改めて、そのことを思い出させられて、意気に感じた私は、「巨人軍フアン」であることを公言しようと決心したのです。

 阪神タイガースが、関西人の血を沸かすのはよく理解できます。でもジャイアンツ・フアンの血を沸かすのは、全く違うのです。沢村やスタルヒンや千葉や内藤や与那嶺や川上や藤田や長嶋に、連綿と引き継がれている、「巨人軍魂」なのではないでしょうか。それが何であったかをまとめ上げててくれたのが、川上元監督の藤田元投手への弔辞だったのではないでしょうか。

 テレビの試合中継が終わると、携帯ラジオに耳をつけて、試合の成り行きに一喜一憂していた親爺の寝姿を思い出すのです。それほどまでに惹きつけさせていたものが、何であったかも、改めて分かったことになります。

 あるとき、ニューヨークの学校から講師が来られて、研修会がもたれました。その謹厳実直そうな講師が、講義の合間にこう言いました。『英字新聞を読みたいので、買ってきて欲しいのですが!』とです。何か重大な事件がアメリカで起こったのかと思っていましたら、贔屓の「ヤンキース」の試合結果を知りたかったのです。彼の講義内容とヤンキースと、どの様な脈略があるかを考えたのですが、ありました。そう言った自由と言うのでしょうか、趣味の分野で開かれた心が、興味ある話を紡ぎ出すのだということが分かったのです。
 『硬軟両面の均衡が人には必要だ!』これが、彼の講義で学んだ、もう1つのことでした。
 あの中国の温家宝総理が野球好きだと知って、彼と握手したくなりました!
 (写真は、「XINHUA 新華社」によります)

2007年5月4日金曜日

野球小僧への惜別のことば


  2006年2月9日死去した藤田元司元巨人軍監督への弔辞

           ▽川上哲治・元読売巨人軍監督の弔辞

 藤田君……。「今までよく頑張ってくれたね。きみは自分のことは忘れて、いつも人のことばかりに気をつかって、本当に大変だったね。ごくろうさん。いまはもう楽になったことだろう。ありがとう。長いあいだ、本当にありがとう」  

 きみが亡くなった翌日の朝、用賀の自宅をたずねると、きみは応接間に眠るように静かに横になっていた。訃報をきいてから、気持ちが乱れてどうしようもなかったが、きみにこう話しかけたら、心が少し静まった。 

 去年の十一月二日、正力賞の選考会で会ったとき、杖をついていたので、「大丈夫か」と声をかけると、「大丈夫ですよ。おやじさんこそ気をつけてくださいよ」と逆に気づかってくれた。何年か前から透析をする体になって、入院することも何度かあったが、この日は会議のあとの食事もちゃんととっていたのですっかり安心していた。翌月に入院していたことは知らなかった。まさか、あの日が最後の日になるとは……。思いもしなかった。  

 このショックは、今日になってもまだおさまらない。この何十年のあいだ、公私にわたり、一緒に過ごしてきた、あまりにも多くの思い出が、次から次と甦ってきて尽きることがない。 

 選手のころ、水原監督から「藤田頼む」と言われたら、肩が少々重くても、また、完投した翌日でも、チームの勝利のために、「行きましょう」ときみは黙って投げ続けた。投手生命を縮めてしまったが、愚痴ひとつ聞いたことはなかった。 

 V9時代、すぐにピッチャーを代えたがる僕に、コーチのきみは「まだ大丈夫です」と投手をかばい、僕のズボンのベルトを握り締めて、マウンドへ行かせなかった。鬼のような顔つきのきみを忘れられない。 また、宮田投手の個性を活かすため、リリーフにつかい「八時半の男」に仕上げて、プロ野球でのリリーフ専門投手の基礎を築いた。それもきみの功績だ。  

 そして長嶋くんの後を受けて、大逆風のなかで監督になると、みごと日本一となって巨人軍の大ピンチを救ってくれた。戦力もどん底、火中の栗を拾う損な役回りはきみにしかできないことだった。さらに王監督の後のチームのピンチのときも、再建をひきうけた。長嶋監督のときと同じで、人気監督のあとは、誰が見ても腰のひける損な役割だった。だが、このときも、「友達がちょっと疲れたので、その代わりを務めるだけです」と逆に王くんを気づかう爽やかなコメントをしていた。  

 きみには以前から心臓の持病があった。このころは腎臓も悪くなっていて、医者から「今度監督をやったら命を縮めますよ」と言われている、と聞いていた。「でもね、おやじさん、あのおじいさんの務台さんから、『藤田くん頼む。きみしかいないんだ』と言われたら、断れませんでした」ときみは笑って言っていた。 自分を捨て、務台光雄会長の心にこたえた。愛する巨人軍へ笑って命を差し出す男気。この男は、いつでも死ねる、勇気のある本物の日本男子だ、と改めて感じたことを覚えている。  
 
 話は変わるけど、みんなで仲良く、よく遊んだよね。釣りにゴルフ。釣りでは武宮くんや、牧野くん、グラウンドキーパーの務台さんたちと……。釣りは君が先輩で、糸の結び方やリールの扱い方まで、何も知らない僕に親切に教えてくれたね。いつだったか、伊豆のみこもと島で、石鯛を二十数匹釣って、船宿で褒められたことがあったよね。あのときは、楽しかったなあ……。 

 ゴルフでは僕のほうが先輩で、牧野くんや僕と回ると、きみはいつもカモだった。飛ぶのは無茶苦茶に飛ぶが、ときどきOBも打ってくれるので、可愛かった。しかしきみはいつも淡々として、「どうせ遊びのゴルフ。みんなと楽しく過ごせればよし」とする持ち前のおおらかさで、誰からも愛され慕われていたね。  
 
 しかし、そういうきみは、いまはもういないのだ。どんなに辛く悲しくとも、その現実を受け入れるしかない。  

 いつだったか、きみが大好きだ、という言葉を聞いたことがある。「あたりまえのことを、あたりまえにすれば、あたりまえのことが、あたりまえにできる」 慶応高校野球部長、故、長尾先生から教わった、ときみは言っていた。若いころから、球界の紳士、と呼ばれていた、いかにもきみらしい人生観だった。いつかそれを褒めたら、「いやいや、学生のころは喧嘩っ早くて、不良だったんですよ」と言っていたのを思い出す。「紳士たれ」という言葉こそ、かつて正力松太郎さんが巨人軍の指針として示された言葉だ。紳士とはやせ我慢ができて、人に手柄を譲れること。そして誰にでも愛情をもって接することができること。きみはその全部を持っていた。  

 言うまでもないが、きみは優しい夫で良き父親。あたたかく素晴らしい家庭を築いていた。本当にきみは情にあつく優しい人だった。しかしそれだけではなかった、と僕は思う。きみほど厳しさに徹底した男は少ない。 愛情とは、ただ仲良く、甘く優しくすることではない。厳しく相手と向き合ったうえで、人を活かすことだ。どんな人間にもその人なりに素晴らしい持ち味がある。失敗を受け入れ、弱さを認めてチャンスを与え、力を引き出してやる。それがきみが命を削ってまでも、後輩たちに伝えたかったことだ、と僕は思っている。  

 そういうきみだから、運にも恵まれた。ドラフトで、原くんを引き当てた。教え、育てて、いまやきみの立派な後継者となって、今年の巨人軍を率いてくれている。心配はいらない。かならず大きな花を咲かせてくれるに違いない。  

 いろいろ言ってきたが、今頃は先に行った仲良しの牧野くんと再会しているかもしれないな。約束を破って、僕より先にいってしまったが、もうすぐ僕もいくだろう。そうしたら、そちらでまた楽しくやりましょう。  

 今日は辛くて寂しい。悲しいけれど、涙を見せずにきみを送ることにする。どんなに辛いときでも、笑顔を忘れなかったきみへの、それが一番の供養だと思うからだ。 

 ありがとう。ありがとう。本当にありがとう……。
 
 藤田くん、さようなら。               平成十八年二月十五日川上哲治


○ 藤田元司氏(1931年8月7日 - 2006年2月9日)は、愛媛県新居浜市で生まれる。慶応大学出身。昭和32年,26歳で巨人に入団し,その年17勝をあげて新人王を獲得。33,34年には2年連続でセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。8年間投手として活躍し,リーグ優勝5回,日本一2回に貢献。また,昭和56年からは計7年間巨人の監督を務め,リーグ優勝4回,日本一2回。
○ 写真上は、藤田元司投手の投球フォーム(スポーツ報知より)、写真下は、監督時代の物(ジャイアンツ所蔵)

一切れの乾いたパン


 「一切れの乾いたパンがあって愛し合うのは、ご馳走と争いの満ちた家に勝る」と、私の父の日記帳に記されてあります。これは、私の家庭建設のための指針のことばでもありました。 

 私の父も母も、恵まれた家庭環境の中で育ちませんでした。「時代の子」だったのでしょうか。かつて私たちの国には、「足入れ婚」と言う風習があったのですが、いわば「試験結婚」と言ったらよいかも知れません。嫁ぎ先で、舅や姑や祖父母と一緒に生活をしてみて、彼らのテストに合格しなければ認めてもらえない、封建的な家中心の考えがあったのでしょう。それで、『家の格に合わない!』と言う理由で、父を残して生母が出されてしまいます。その家に、正妻が迎えられるのですが、その方に男の子が生まれます。父は嫡男ではなく「庶子」で、母違いの弟が家督相続権を継ぐことになるわけです。 

 疎んぜられた父と、喜ばれ期待され叔父との関係の構図が、旧海軍の軍港を見下ろす、海軍一家にはあったのです。旧制の県立中学校に入学するのですが、途中で、親戚のいる東京の私立校に転校してしまいます。何か難しい問題があったのでしょう、十代の前半にあった父は、親元を離れることになったわけです。旧制の中学校に進学させてもらったのですから、経済的には恵まれていたのでしょう。 

 ところが、父の弁によりますと、『俺の弁当は、弟や妹たちとは桁違いだった。おかずがほとんど入っていなかった!』と、結婚してから、私の母に愚痴を言ったことがあるのだそうです。それだけ母に心を開いていたからでしょうか。叔父は、南方で戦死し、名門家庭の期待に沿うことが出来なかったのです。   

 愚痴を聞かされた母も、婚外子として生まれ、生後間もなく養女に出されてしまいます。養父母には愛されて育つのですが、自分の生まれを母に告げる者がいて、まさに思春期の只中で、それを知るのです。18になった時、生母の嫁ぎ先の奈良に会いに行くのですが、『帰って欲しいの!』と言われて、泣く泣く帰ったのだそうです。負けず嫌いの母が、それでもチラッと見せる《かげり》の理由が、この辺にあるのだと分かったのです。 

 そんな両親に、男の子が4人与えられたのです。家庭の暖かさを知らない両親でしたが、実によく、私たちを育て上げてくれたのです。今日日、養育責任放棄の親のことが話題になりますが、私の父と母は、自分が受けないものを与えてくれたのです。父は会社帰りに、ケーキやあんみつセットやソフトクリームやカツサンドを、東京から持ち帰ってくれたのです。あの味こそが、非行の抑止力だったのではないかと思うのです。『父に愛されているのだ!』と言う、何ともいえない確信が、胃袋で感知できたからでした。母は料理が上手でした。ハンバーグなど、まだ流行らない時期に、わざわざ挽いてもらった牛肉で手作りを、よく造ってくれたのです。母は胃袋だけに訴えたのではなく、4人のために、叫びながら育ててくれたのです。 

 父は、自分の継母の葬儀に私を連れて行きました。『○○さんは、料理が上手だった。よく西洋料理を作って食べさせてくれたんだ!』と継母を自慢していました。だから弁当の件は、少年期の父のひがみだったかも知れませんね。そう言って赦したのは、父が召される数週間前だったのです。 

 もう1つ、小説のような物語があるのです。母の生母が亡くなった時、その枕の下から、一葉の写真が出てきたのだそうです。小・中・高・大の4人の息子の記念にと、父が街の写真屋で撮ってくれたものでした。どのように祖母の手に入ったのか分かりませんが、出しては眺め、出しては眺めたのでしょうか。自分が産んだ子たちを、孫と認知してくれたことを知った母は、どんなにか慰められたことでしょうか。すごい! 

 私と家内は、三男と三女で、それなりに育てられて、「わが道を行く」を生きて来て、4人の子の親をさせていただき、孫も抱くことが出来ました。彼らが富まなくても、持たなくてもいいから、「一切れの乾いたパン」を食べて、穏やかに、愛し赦し合いながら生きて行って欲しいと願う、初夏の陽気の五月であります。

2007年5月3日木曜日

力道山


 力道山と言う名のプロレスラーがいました。相撲上がりの彼が、たちまち日本の大人気者になったのです。それは、大男の白人系外国人選手との対戦で、見事に勝ってしまうからです。戦争に負けて、敗戦国の惨めな戦後を生きてきたには、溜飲の下がる思いだったのです。テレビの放映が始まって間もない頃の話なのですから、テレビ普及の大貢献者だった事になります。街の銭湯の帰りに、燃料屋の庭先のござの上に座って見せて貰った覚えがあります。もともと「弱い者いじめ」を嫌う気風が日本人の心の中にあったのではないでしょうか、小男が大男を倒すとか、「弱い者いじめ」に天罰を下すと言う物語を、日本人は好んできたのですから、力道山を拍手喝さいで応援したわけです。   

 当時、柔道界に無敵の常勝選手がいました。熊本出身の木村正彦で、日本選手権で4連覇の猛者でした。柔道をやめた彼はハワイに渡って、プロレス選手として活躍していたのです。この木村と力道山とが、リングの上で対決して、「プロレス日本一」を決めようとの話が持ち上がり、雌雄を決する試合が行われることになったのです。1954年の事でした。どうも二人の間では、引き分けや交互に勝ち負けをして、興業を長引かせて行こうとの密約があったようです。ところが、禁じ手を使った木村に怒った力道山が、張り手を使って散々な流血試合になって、『勝負あった!』で終わります。結局、木村は故郷に帰り、力道山がプロレスの興業を続けて行ったというのが、通説のようです。

 そう言った経緯から、プロレスとか大相撲と言った、お金のかかった職業人同士の勝負には、「八百長」がつき物で、我々は、これを「ショウ(見世物)」として見ていたのです。もちろん強い選手が出てきて、チャンピオンになったり、横綱を張ったりしていたのですが、所詮は「興業」でした。相撲では、八番勝ちますと給金を直すと言って、現状維持か、数段の番付の昇格が約束されるので、八番勝った者と、八番勝ちたい相撲取りとの間には、裏取引が暗黙のうちにある、これも定説でした。

 それなのに、大相撲を「国技」だと言うのには、合点が行かないないのですが。楽しみの少なかった戦後の時期には、全国民が大変興奮して観ていましたが、いまや人気にかげりが見え、斜陽化してしまっているようです。外国人選手が幅をきかせるいる相撲界は、衰退の一途をたどっているようですが、使命は十分に果たしてきたのではないでしょうか。

 それにしても琴ヶ浜の内掛けは小気味がよかったし、栃錦の盛り上がった両肩の筋肉には驚かされたものです。「朝、何がし」とか言う相撲取りなどが及びもつかないほどの相撲に、欣喜雀躍した、少年の日の懐かしい思い出が鮮明であります。ああ言った、少年の心を奮い立たせるようなスポーツがなくなってしまったのか、スポーツが多様化してきたのか、今日日のスポーツ界が、今ひとつ盛り上がらないのは、お金が絡んで、純粋さが失せてしまうからなのでしょうか。

 私の父の日記帳の中には、「お金」が罠であることについて触れた箇所があるのですが。                                 

2007年5月2日水曜日

阿倍仲麻呂


 唐の時代、留学する道が開かれた阿部仲麻呂は、717年、第8次の遣唐使の遣唐船に乗って大陸に渡り、長安の都に到着しました。大和の国に生まれた19歳の秀才でした。
 
 文明開化の明治のご時世に、ロンドンに留学した青年たち以上の機会だったのではないでしょうか。彼は長安で、当時の高等教育を受け、日本人でありながら「科挙(任官試験)」に合格するのです。6代目皇帝・玄宗の寵愛と信任を得ます。高位高官の機会を得て、彼は大抜擢をされるのです。当時の唐には、世界中から留学生がやって来て学んでいたのですが、外国人に対して、そう言った機会が開かれていたと言うことに驚かされるのです。大変、開かれた国であったことになります。

 
長安の都で36年を過ごした彼は、帰国が許されて、753年の冬に、長安を出て江蘇省鹿苑から帰国の途に着いたのです。ところが嵐にあって、船は安南(現在のベトナム)に漂着してしまいます。多くの人が殺されてしまう中を生き延びた彼は、奇跡的に755年6月に長安に戻ったのです。その後も多くの官職を歴任したのですが、ついに73歳で、故国の土を踏むことなく、望郷の念を抱きながら、長安で客死してしまうのです。

 先日、来日され国会で演説をされた温家宝総理は、演説の冒頭、『友情と協力のために貴国に来ました!』と言って、日中戦略的互恵関係の構築の重要性をアピールされました。彼は、奈良時代の遣隋使・阿倍仲麻呂や鑑真和上を取り上げて、『両国の友好往来は時間の長さ、規模の大きさと影響の深さは、世界文明発展の歴史に類をみません』と言われたのです。

 この中国は、文字も、米も農機具も、着る物も機織機も、何も持たなかったわが国に、それらを教え伝えてくれた恩義ある国なのです。その恩恵を忘れて、軍靴で踏みにじり、多くの命を奪った国を、赦して受け容れるために「友好の手」を伸べてくださったわけです。その懐の深さに驚かされるのです。彼は、わが国との間に、これから将来に向かって、回復され構築されて行く友好関係の深さや長さを強調されたわけです。

 仲麻呂は二十歳前に留学したのですが、私と家内は60を過ぎて、ここ天津に参りました。老いを生きるためではなく、人生の総仕上げのために、この地に生きて、温総理の差し伸べた手に、私の小さな手を添えて、中日の和解と友好の構築のために過ごしたいと願うのであります。

 昨晩、天津の五月の月が、実に綺麗でした。「天の原」を見上げて、目を東に向けたのです。しばらく我が故郷のことどもに思い巡らせていました。健在な母や兄弟や子や孫や友を思い、健やかで平安であるようにと願うことのできた春の宵であります。
(写真は、天津の友誼路の道端の初春の緑です)

2007年4月29日日曜日

南十字星に憧れて


 『一度南十字星を見たい!』と、幼い日から、南半球の世界に、私は憧れていました。それで、『船に乗るなら何時か行ける!』と思って、船乗りになろうと本気で考えたのです。あの戦争中には、今のように、コンピューターや携帯電話がありませんでしたから、軍関係の仕事に携わっていた父は、仕事の極秘事項を受け取り、また報告する必要があったのでしょうか、「打電機(モールス信号を送るための機器)」が父の机の上に、チョコンと置かれてありました。戦争に負けて、無用の長物となってしまった物でしたが、何か思い入れがあったのでしょう。それに興味津々の私は、目をまん丸にして、船乗り(船には、当時、無線技師が通信士として乗船していました)になる「夢」を見ながら、日柄、それをおもちゃにして遊んでいたのです。

 北半球の小さな島に生まれて、しかも辺地の山の中で育ったのですから、県庁所在地の町だって知らない、北半球の99.99パーセントは皆目分からなかったのにです。でも、赤道のむこうにある「未知の世界」への関心は、子どもの「浪漫(ロマン)」とでも言えるでしょう。ところが、だれもが憧れるのかと言うと、そうでもないようで、私のように短絡的な早とちりの子どもは、簡単に動機付けられてしまい、思いを外に向けてしまうのです。

 いつでしたか、『知らない街を歩いてみたい・・どこか遠くへ行きたい・・』と言う歌詞の歌が流行っていた事がありますが、その歌詞こそ私の心境そのものでした。そう言った夢を17の私は、蒸し返したのです。「日本アルゼンチン協会」に手紙を書いて、移民の可能性について聞き、案内書を送ってもらったのです。その案内書には、アンデス山脈のふもとの町メンドサが紹介されていて、今まで見たことのない綺麗な女性の写真が目に飛び込んできたのです。鼻の低い日本人の女性しか知らなかった私(私も低いのですが)に、「クレオパトラ」のように妙齢なその女性が、『おいで、おいで!』をしていたのです。『行かなけれが男がすたる!』、そう思った私は、『どうしてもアルゼンチンに行くぞ!』と強く決心をしたのです。単純なんです。ところがハシカのように、その写真への恋に冷めてしまった私は、こじんまりした学校に進路を、簡単に選び変えてしまったのです。

 ところが、今から10年前ほど前に、ブエノスアイレスに行く機会が与えられたのです。その飛行場に降り立った瞬間、それは実に感動的でした。青年期に叶えられなかった夢が実現したのですから。『俺って、ここ移民していたら、何をしているのだろうか?』と思いました。まるでタイムスリップしたように、17歳の頃の思いがよみがえってきたのです。ところが、この国はヨーロッパからの移民社会で、白人世界で、日本から移民した人たちの、ほとんどが洗濯屋か花屋をして生活をしてきたという事を聞いたのです。南十字星や女性に憧れて来たって、「ガウチョ(カウボーイのこと)」になるくらいで、何も具体的な願いを持っていなかったわけです。

 そこで過ごした1週間ほどの間に、夜空を何度も見上げたのですが、南十字星を見付けることはできませんでした。また街の中をきょろきょろしたのですが、メンドサのあの女性にはお目にかかることが出来ませんでした。ハシカのような恋だったのですから当然でしょうね。

 しかし昨年の9月に、日本をたたんで、ここ中国に来ることが出来ました。妻と共にです。「恋」をしたからではなく、『来い!』との声を聞いたからであります。

2007年4月24日火曜日

店屋物


 子どもを喜ばせることも、怒らせることも、上手な親爺でした。一方、母は、親爺と4人の息子たちのために、一人一人が独立して家を離れする日まで、毎日、様々な工夫をして食事の支度をし、家事をこなしてくれました。きっと、大変なことだったに違いありません。

 『する!』とか『しない!』と言ったことではなく、『しなければならない!』と言った母としての使命感が、そうさせたのでしょうか。もちろん、代は、『男は外!』、専業主婦の時代でしたから、家事一切が母親の仕事であったわけです。今のように洗濯機も、ガスコンロも、電子レンジも、水道だって無い時代でした。一本筋が通っていたのでしょうか、いやな顔一つすること無く、黙々として励んでいた姿を思い出します。

 その母が、1週間に一度は、新宿に出ては息抜きの買い物をしていたのだそうです。揚げ物は、コロッケくらいの時代に、ハンバーグを作ってくれたり、カツを揚げてくれたり、結構豊かな食卓だったのを思い出します。そんな母の背後で、親爺が家にいるときは、店屋物の丼や握り寿司や中華そばを注文しては食べさせてくれました。お袋への優しい配慮だったのです。そんな親爺とおふくろの共同戦線が、家でも外でもケンカに明け暮れる息子たちの非行化防止の妙薬だったに違いないと、今、述懐しつつ思うのですが。それが功を奏して、一人も極道の世界に入ることはありませんでした。

 私の妻も同じ町に住んでいたのですが、私との結婚が決まった時に、彼女の職場の同僚が、『あの人と結婚をされると聞いたのですが、大丈夫ですか?』と聞いてきたのだそうです。この人は、私たちが育ってきた様子を、見聞きして知っていたのです。荒くれ4人兄弟の三男坊との結婚を危惧して、そう心配されたのだそうです。余計なお世話でした。私には、カツ丼や天丼を食べさせてくれた親爺がいて、一生懸命に養い育ててくれた母親がいたのです。井戸端で人の悪口を言うような場に決して顔を出さない母親でした。家事万端を済ますと、毎晩、駅裏のアメリカ人の家に出かけて行きました。英語の勉強のためではありませんでした。「読書会」に行っていたのです。それは娘時代からの、ただ1つの母の楽しみだったようです。

 兄たちや弟と、『お袋が、並みの親だったら、みんなぐれていたよね!』と言って、並みで無かった母に感謝したものです。私の父の日記帳の中に、「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ」と記されてあります。

 母よ、健やかであれ!

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。